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――さよなら。  睦月は心の中で、そっと別れの言葉を呟いた。  発進したワゴン車が、角を曲がってアパートの前から姿を消すまで、翼はずっとそれを見送り続けていた。だが、決別の意思を固めて、振り返らず前を見つめていた睦月がそのことに気づくことはなかった。 ■□■  車を走らせながら、祐太は助手席に座る睦月のことを横目で盗み見る。先ほどアパートを出発する前に、彼を呼び止めた男としばらく話した後で車に乗り込んでから、明らかに睦月の雰囲気が違うのが気になったからだ。  ドアに顔をぶつけた祐太を介抱してくれたり、おわびにと言って替えのTシャツを手渡してくれたりした時の睦月は、どちらかというと人懐こい親しみやすい感じだった。荷物を一緒に運び出す時も、会話の内容は事務的だったけど気安い印象が強くて、仕事もやり易かった。  だが今は、まるで見えないバリアを自分の周囲に張り巡らせて、すべてを拒絶しているような感じがする。表情も憂いがちで、あの花咲くような笑顔はすっかりなりをひそめていた。  ──あの男、誰だったんだろう?  いけないとわかっていても、祐太の興味はどうしても隣に座る客である青年と、彼と話していた男に向いてしまう。  あの中途半端に荷物の残った部屋。あの男は、おそらくもう一人の住人だったのだろう。  同居するくらい仲のよかった友人だっただろうに、どうして睦月は引っ越すことにしたのだろう。しかも、別れ際の二人には、誰も入れないような独特の空気が漂っていた。  それに似たようなものを祐太はたしかに知っているような気がしたのだが、それはどういうシチュエーションだったのか、どうしても思い出せない。  それにしても、と祐太は考える。  なぜ、こんなにも助手席の彼のことがこんなに気になるのだろう。  彼は、大勢いる客の一人でしかない。今日の引っ越し作業が終了すれば、二度と会うことはない存在だ。それなのに、祐太は睦月のことが気になって仕方がない。止めろと、理性が告げているのに、もっと知りたいと、心の奥の自分が強く主張する。  どうして、引っ越すのか。  あの男は、何者なのか。  どうして──そんなに寂しそうな目をしているのか。  実際に睦月に問い質して、それが会社にバレたら懲戒をくらうだろう。それでも、聞き出してしまいたい衝動に駆られる。  なぜそんなことを考えてしまうのか、祐太自身よくわからなくて、ため息の数が自然と増えていた。  30分ほど走ってから腹の虫が鳴って、お昼時だということに気づく。赤信号で停車して、昼食をどうするか相談しようと、助手席に目を向けた祐太はぎょっとした。  泣いていたのだ、睦月が。  声もあげず、唇を引き結んで、前を見据えたままで。  大きめの瞳からいく筋も流れ落ちる涙は、彼の細い顎を伝って、膝の上で握りしめていた拳に雫となって落ちていく。  だが、当の本人は、それを拭おうとする気配すらない。まるで、泣いていることに自身が気づいていないかのように、睦月は無表情のままで、ただ前を見つめ続けている。  その様が痛々しくて、祐太はいったんは目を背けた。だが、その静かに泣いている姿に惹きこまれてしまい、つい横目で見つめてしまう。  背後からクラクションが聞こえて、我に返った。信号が青に変わっているのに気づいて、慌てて車を発進させた。  そんな祐太の様子にも目を向けず、睦月はまだ涙を流し続けている。  祐太は小さく舌打ちすると、手探りで傍らに置いていた自分のバッグの中からタオルを取り出して、睦月の頭に被せるようにしてかけてやった。  自分の視界を遮る布の存在に気づいて、睦月は漸く我に返ったような表情になる。タオルに訝しい視線を向けて、それからゆっくりと運転席へとそれを移した。 「あの……」  戸惑いがちな声は、まだ虚ろげなトーンを残していた。祐太は、わざと運転に集中しているふりをしながら答えた。 「使ってください。洗いたてだし、俺はまだ使ってませんから」 「え?」  わけがわからないといった感じの言葉に、祐太はたまらない気持ちになり、適当な場所に車を停めると、頭にかけてやったタオルを睦月の顔に押しつけた。  すると、自分の状況にやっと気づいたらしい睦月は、自らタオルを顔から離して、濡れた頬に手をやった。 「あ……れ?」  そう呟きながら、自分の涙を指で拭う。どうやら、泣いていたという自覚すらなかったらしい。彼の頬を濡らしていたのは、無意識から出た涙だったのだ。  そんな睦月の様子に、祐太の胸の中はもどかしさと、庇護欲と、腹立たしさがぐるぐると渦巻く。  一呼吸して気持ちを静めると、出来る限り穏やかに声をかけた。 「落ち着いたら、飯でも食いましょう」  その途端、睦月の瞳がみるみる潤んだと思ったら、大声をあげて泣き出したのだった。

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