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 住み慣れたアパートを離れて、新居に向かって車は静かに走っていく。  その途中で、6年間慣れ親しんだ街並みが、睦月の目の前をどんどん通り過ぎていった。  あの角のレストランのパスタは、なかなか美味しかった。その先にある雑貨屋で、翼の灰皿を買った。緑色の綺麗なガラス製の灰皿だったのに、ヘビースモーカーの翼はすぐにそれを吸いがらでいっぱいにしてしまっていた。  あそこにも、むこうにも。翼と過ごした思い出が、たくさん散らばっていた。  目に入る何もかもが、彼を連想させてしまい、何処に目を向けていればいいのか睦月はわからなくなってくる。  中学生の頃から、睦月と翼はいつも一緒にいた。互いに『親友』だと思っていた。  けれど、いつしか睦月は翼に『親友』以上の感情を持つようになっていた。普通じゃないこととわかっていても、想いは膨らむばかりで、抑えきるのが難しかった。打ち明けることもできずに苦しんで、人知れず涙する日もあった。  大学生になり、家賃が安くすむという理由で、互いの大学から近いあのアパートに同居するようになってからは、己の自制心を総動員して、神経を張り巡らせる毎日を過ごした。  同居して、1年後。翼も自分と同じ気持ちでいることがわかった時は、喜びに胸が震えて、このまま死んでもいいとさえ思った。  恋人になってから、交わした沢山のキスと甘い言葉と、愉悦と愛撫。  確かに、睦月は幸せだった。翼への愛しさは終えないと、信じて疑わなかった。  いつから、それが憎しみへと変わっていったのだろう。二人の間に交わされた睦言は、罵りの言葉となり、相手を見つめる眼差しの熱は冷めていき、次第に視界に入れようとしなくなっていた。  愛情は、その反動で生まれた憎しみという名の泥の中に埋もれていった。だが、確かに二人の間には存在していたのだ。  やっぱり、最後に顔を合わせてしまったのがよくなかった、と睦月は思った。  もうこれ以上、翼の事など考えたくないし、楽しく過ごした日々など思い出したくもないのに、心は自然と目が捉える風景から記憶を引き出していき、睦月を翻弄する。  なにもかも、新しく始めたかったのに。  その時、頭から何かが被せられて、睦月の視界は白い無地一色になった。よく見ると、それは真新しいタオルだった。被せた張本人は、片手でハンドルを握ったまま、運転を続けている。 「あの……」 「使ってください。洗いたてだから」  わけがわからずに睦月が声をかけると、運転手の青年はこちらを見もせずそう言った。 「え……?」  睦月がきょとんとしていると、なぜか車は路肩の方へ寄って、停車してしまった。 「ど、どうしたの!?」  いきなりの路上駐車に、ますますわけがわからなくなって睦月がうろたえていると、軽く顔面にタオルを押しつけられた。頬に当たる感触に、漸く自分が泣いていることに気づいた。  あらためて指で触れてみると、思っていた以上に自分の顔が涙で濡れていたことに驚く。 「あ、れ……?」 「落ち着いたら、飯でも食いましょう」  明るく、優しさに満ちた声だった。  それを聞いた途端、堰を切ったように再び溢れだした涙を、睦月はもう自分では止められなかった。嗚咽が洩れて、次第にしゃくりあげるように泣き出していた。  次から次に流れ落ちようとする涙を、白いタオルが吸い込んでいく。口腔の奥が痛くなり、喉が焼けるように熱くなる。鼻水が涙と同じくらいの量で、みっともないほど沢山出てきた。  号泣。まさに、その言葉通りの泣き様だった。  いい年をした大人の男が大泣きしているのを、運転席の青年は何も言わずにその場にいてくれた。睦月を馬鹿にするでもなく、同情して慰めるでもなく、だからといって、存在を無視するでもなく。ただ、黙ったままじっと座っていた。  だが、睦月にとっては、その距離感が心地好かった。 ■□■ 「ごめんね……」  コンビニで買ってきたおにぎりをもそもそと食べながら、睦月は呟くように謝った。 「いえ……」  祐太も短く返事をして、黙々と弁当を食べている。  ひとしきり泣いたあと、落ち着いてきた睦月に安心すると、祐太は車を出してコンビニまで向かった。そこで食料を調達したあと、近くで見つけた公園の脇に車を停めて、遅めの昼食を車内で食べ始めた。  いい陽気なのだから、本当は公園の中に入って、ベンチにでも座りながら食事をしたかったところだが、睦月の顔を見て、それを諦めることにした。  睦月の瞼は腫れぼったくなっていて、目元や鼻の周りも赤くなっている。瞳はまだ涙の名残があるのか、少し潤んでいた。いかにも、今の今まで泣いていましたという顔だ。  さすがに、そんな顔を人前で晒すのは、男として抵抗があるだろうと祐太は考えて、車内での昼食にしたのだ。  だが、それは理由の半分で、もう半分の理由は他にあった。  こんな無防備に近い儚げな様子の睦月を、祐太は自分以外の誰にも見せたくないと、独占欲めいた感情が働いたのだ。

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