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 車から降りると、睦月はマンションまで小走りで向かい、アプローチのドア横に設置してあるパネルに鍵を差し入れて、暗証番号を押した。独特の唸るような機械音と共に、自動ドアがゆっくりと開く。エントランスの奥にあるエレベーターに乗って5階に到着すると、目当てのドアの鍵を開けてドアノブを引いた。  2LDKで南向きの、すべてフローリングの部屋。それが、睦月の新しい住み処だ。  最寄り駅が遠くてかなり歩くが、フリーランスの身の上で自宅を仕事場にしている睦月にとって、それはさほど不便だということはない。  そのお陰で広さのわりには安価な家賃と、ベランダからの眺めの良さが気に入って、ほぼ即決に近い形で契約した。  以前に住んでいたアパートから離れた場所にあるということも、すぐに決めた要因のひとつでもあるのだが。  ベランダの窓をすべて開け放つと、心地よい風が睦月の頬や髪をくすぐりながら部屋に入ってくる。見晴らしのいい景色を眺めながら、睦月はゆっくりと深呼吸した。  これから、この場所で新しい生活を始めるのだ。  思いきり泣いたせいだろうか。心のどこかで憂慮していたほど、翼の存在や思い出は思考の中で重く残ってはいなかった。それどころか、それらをどこか遠くに感じていて、自分でも驚いている。 (大丈夫──きっと、始められる)  なぜかはわからないが、確信に近い思いが睦月の中にあった。  しばらくそんな風にあれこれと思考をめぐらせていると、ピンポーンとインターホンが鳴った。 「いけね。まずは、引っ越しを終わらせなきゃ……だな」  ひとりごちながら、リビングの壁に備え付けてあるドアホンの受話器を手に取った。 「はい」 『徳倉です。あの……』  耳に入ってきたのは祐太の声だったが、どこか戸惑っているような感じだ。 「どうしたの? 今、開けるよ」 『それが……スズキ電器の方が、薗部さんに電化製品を届けにいらしてるんですが』  そう言われて、睦月は腕時計に目を向ける。そういえば、幾つか必要な物を量販店で購入して、今日に配達日を指定して配送を依頼していたのを思い出した。 「そうだった。じゃ、一緒に入ってもらって」 『わかりました』  インターホンの横にあるオートロックの解除ボタンを押すと、睦月は受話器を置いた。やがてすぐに、玄関のドアベルが鳴る。睦月がドアを開けると、ダンボール箱を2つほど抱えた祐太がぬっと顔を出した。 「睦月さん! 冷蔵庫と電子レンジとパソコンだって!」  勢いよく祐太が言った。それを聞いた睦月の心臓が、トクンと高鳴る。 (え? 今、名前で呼んだ……?)  呆然として突っ立っている睦月に、苛立ったような声で祐太がさらに言った。 「ほら、そこ! 道空けないと、入れないですよ!」 「う、うん」  祐太の勢いに負けて、つい言うことを聞いてしまい、睦月は廊下の壁にくっつくようにして体を寄せて、通り道を作った。「失礼します」という声と共に、祐太の後に続いて次々と電化製品の大きな箱が、睦月の目の前を通りすぎていく。 「睦月さん!」 「はいっ!」  祐太に呼ばれて、思わず返事をして振り返った。心臓がドキドキして、その音がなぜか耳元で響いてうるさい。名前を呼ばれた。ただ、それだけなのに。 「冷蔵庫、こっちでいいんすか?」 「あ、うん。それはさ──」  慌ただしさに、睦月はつい聞きそびれてしまった。  ──今、名前で呼んだよね?  そんなたった一言が、睦月はなぜかすぐに聞けなかったのだ。 ■□■ 「──っと、こんなもんか? 睦月さん、それダブルクリックしてみてください」 「んーと……これ?」  祐太に指示されて、睦月は新しく表示されたアイコンをダブルクリックする。しばらくすると、ウィンドウがパッと画面に広がった。 「あ、できた」  明るい声でそう言うと、睦月はデスクトップのパソコンの前で小さく拍手した。そんな彼を見て、祐太はクスッと笑う。  すでに日は沈んで、窓の外は暗くなっていた。  本来なら、車で運んできた荷物をすべて転居先に移動した時点で、祐太の“便利屋”としての仕事は完了している。しかし、睦月と離れがたかった祐太は、気がついたら引っ越しの荷を解いていて、窓にカーテンを取り付けたり、テレビとビデオの配線を整えたり、あげくの果てに、パソコンのセットアップまで手伝ってしまっている。朝、仕事を引き受けた時は、早めにこの仕事を片付けて終わらせようとばかり考えていたのに、数時間経った今は仕事と称して、客である睦月のそばにいつまでも居残っている。  だが、それは睦月も似たようなものだった。本当は、カーテンを取り付けるのも、テレビやビデオの配線も、パソコンのセットアップやソフトのインストールだって、自分一人でできる。だけど、祐太と話をしていたくて、彼の『睦月さん』と呼ぶ声をいつまでも聞いていたくて、快く引き受けてくれるのをいいことに、次々といろんな用事を頼んでしまっていた。  今だって、そうだ。 「祐太くん。コーヒー淹れるけど……飲む?」  少しでも引き留めたくて、コーヒーメーカーにスイッチを入れている自分がいた。

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