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「あ、いいっすね。飲みます」  祐太が睦月の方を振り返って、にっこり笑った。  どさくさに紛れて名前を呼ばれたように、睦月も祐太の名前を同じようにして呼んでいた。  今朝初めて会って、たった数時間を過ごしただけなのに、まるで昔からの友人のように打ち解けて、下の名前で呼び合ってしまっている。  たったの数時間。  だが、睦月にとっては自分のすべてを一気にさらけだした時間だった。  年下の青年を前に、大泣きして、ばか笑いをして、話さなくてもいいような引っ越しの真相まで明かした。  まるで、数ヶ月分のような密度の時間だったと、睦月は思う。  コーヒーメーカーはコポコポと音をたてながら、ソーサーに芳ばしい香りを漂わせて黒い液体を少しずつ落としていた。睦月は、それをぼんやりと見つめている。 「すっげ、いい香り」  自分のすぐ背後で響いた明るい声に、睦月はびっくりして振り返った。意外なほどの至近距離に祐太が立っている。  咄嗟に振り返った体勢のまま、背中をのけぞらせてしまった。無理な姿勢は長くはもたず、睦月はバランスを失って後ろに倒れそうになる。 「危ないっ!」という声と同時に、肩と背中に腕がまわされた。  どうにか倒れずにすんでほっとした。だが次の瞬間、睦月は羞恥で顔が真っ赤になる。  まるで、抱きしめられているような格好で祐太に支えられていたからだ。  背が高くひょろりと見えるが、抱きしめている腕や胸板は、肉体労働をしているだけあって意外と逞しい。  華奢な体型がコンプレックスな睦月にとって、それは理想的な体躯で羨ましくなる。  そんなことを考えながらちらっと見上げると、祐太と視線がばっちりかみ合って、睦月は慌てて身体を離す。 「ご、ごめん!」 「いえ……」  睦月につられるかのように、祐太も頬をほんのりと赤らめて俯いた。そのまま互いに黙り込んでしまったので、微妙な沈黙が二人の間を漂う。  ちょっと過剰に反応し過ぎたかなと、睦月は心の裡で反省した。今の自分の態度で、祐太が変に気を遣って近づいてくれないのでは、と心配してしまう。  心配って──?  ふと頭の中に浮かんだ思考に、睦月は軽く混乱した。  きっと、ほら……あれだ。  男と別れたばかりだから、情緒不安定になっているんだ。  胸の中でそう結論づけて、自分に言い聞かせて納得しようとしている。だから、横目で自分を窺う祐太の瞳に、切なげな色が浮かんでいるのを睦月は気づけないでいた。  祐太は睦月の顔を盗み見ながら、両の拳をぎゅっと握りしめる。まだそこに残っている睦月の温もりを逃がしたくなかったからだ。  危ないからと咄嗟に抱きしめてしまったが、想像以上の華奢な身体に祐太は目眩がしそうになった。女じゃない柔らかくもないただ細いだけのそれに、心臓のみならず下半身までしっかり反応しそうになった自分に、自己嫌悪に陥りそうになる。  勢いで、彼の下の名前を呼んでいた。そんな祐太を睦月は嫌がりもせず、気がついたら彼も自分の名前を呼んでくれていた。  嫌われてはいない、と思う。しかし、彼は恋人と別れたばかりだ。それに、その別れた恋人が男だったとはいえ、睦月と祐太は今日が初対面だ。いくらなんでもいきなり近づいたら、警戒するだろう。さっきのように。だが、このままでは報酬を受け取ってそれきりになってしまう。  どうしたらいいんだと、祐太はこっそりため息を吐く。これが女の子だったら、とりあえずデートにでも誘ってというところなんだけどなと、内心でぼやいてみせる。 (デート……そっか)  祐太は、ぱあっと目の前が開けた気がした。  誘えばいいのだ──デートに。  少なくとも、睦月は祐太に打ち解けている。気軽に友人を遊びに誘う風にでもやれば、案外了承してくれるのではないだろうか。  幸いにも、祐太の自宅はこのマンションからそんなに遠くはない。自宅の車を出して、ドライブに出るのもいい。近くで映画なんかを一緒に見るというのもアリだ。  とにかく、祐太はこのまま睦月と客の一人として別れたくないのだ。 「祐太くん」  優しい声音でよびかけられて、祐太は我に返る。振り返ると、両手にマグカップを持った睦月が不思議そうな顔をして佇んでいる。 「コーヒー、入ったけど……」 「あ、どうも」  祐太がぺこりと頭を下げると、睦月はふんわりと笑いながら、リビングのローテーブルにマグカップを置いた。湯気と一緒に、コーヒーの芳ばしい香りが漂う。 「砂糖とミルクいる? といっても、あいにくとミルクがないんだよね」  睦月が申し訳なさそうに言った。 「ああ、俺はブラックでかまわないんで」 「ほんと? よかった。僕も、普段はブラックなんだよ」  ほっとした笑顔に誘われ、祐太も笑みを浮かべながら差し出されたマグカップに口をつける。独特の苦味の中に、なんともいえないコクと深みがある。 「うまい……」  お世辞抜きに呟いた言葉を聞いて、睦月の顔がぱっと明るくなった。 「だろう!?」 「いや、マジでうまいっすよ。こんなにうまいコーヒー、初めてかも」 「うん。前のアパートの近所にコーヒーショップがあってさ、そこで何種類かの豆をブレンドして挽いてもらったオリジナルなんだよ」 「そうなんですか」 「以前は、コーヒーにそんなにこだわってなかったんだけど、翼がコーヒーには煩くてさ──あ……」  嬉々として話していた睦月が、元カレの名前が出たところでふいに口ごもる。祐太はコーヒーを飲むことで、聞いてないふりをすることにした。先ほどとは違う微妙な沈黙が漂いはじめた。

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