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第57話
東京に戻れば、思い煩う暇もなかった。
あの村での出来事は夢のようなものだったと、弘人のこともそうやって片付けられればどれ程楽か知れない。だが現実に村の長である南方京史朗は湊の招致に応え本社まで赴いて来たし、弘人からの連絡は相変わらず無い。
離れている間に弟が全てを思い出してくれたらと願ったが、それもどうやら無駄に終わったらしい。
今朝、弘人のマネージャーから本日帰還の連絡を受けた。その時の話では弘人はあの弘人のままで、湊の弟はまだ戻ってきていないようだった。
記憶に欠如のある状態でも恙無くあの村での撮影は終わったというのだから、立派なものだ。
多少やさぐれた思考でそんなことを思って電話を切る寸前、そういえばと平坂が何か思い出したように言っていたが、結局出勤前の慌しい時間だったため改めて折返しもせずこの時間まできてしまった。
終業時刻はとっくに過ぎた今、会社の窓から見える景色はとっぷり夜色に沈んでいる。あの村の夜に比べれば真昼のような明るさだが、湊にとっては当然ながらこちらの方が馴染み深い。
常務に一時預けたプロジェクトは東京に帰り次第湊の手に戻り、そしてついに本日、実行部隊である各所に渡っていった。
突如湊が呼び込んだ京史朗と職人でもある村人たちの存在は、多少の紆余曲折はあったものの瀬逗が提携する新ブランドの一つとして受け入れられ、大規模プロジェクトの一部に組み込まれた。村が編み出した独自の工芸品が幹部連の眼に留まる上物だったことが提携にまで及んだ理由の最たるものだったが、京史朗の孫である南方エマの存在も大きかった。会社としては若手の、それもクリーンなイメージで人気の高い芸能関係者との繋がりは歓迎すべきものの一つだ。
色々とあったが、これで一番の繁忙期は落ち着いた。後は湊の手を離れたプロジェクトに付随してくるあらゆる事象に対処していくだけだ。
――――やっと、一息つける。
今夜はゆっくり風呂に浸かって何も考えずに早めに休もう。
凝った首を回して鞄を手にし、湊はそう決めて家路に就いた。
帰宅途中で久しぶりに買った缶ビールを冷蔵庫に押し込み、湯が張り終わるのも待たずに風呂に入って、しばらく経ってからはっとした。
風呂椅子に腰掛けて熱めのシャワーで肩を打たれている内に寝ていたようで、気づいたら浴槽になみなみと湯が満ちている。今日は長風呂の気分だったから途中で止めて水を入れるつもりだったのに、しくじった。こんなに熱々だとあっという間に茹だってしまう。
「うーん」
シャワーを止め、湯の表面をたぷたぷして遊ぶ。
最近はいつもこうだ。仕事中は平気なのに、プライベートとなるととんとしゃっきりしない。色々と抜けてしまう時が多くて、たまに自分が心配になる。
いっぱいいっぱいの湯を捨てるのは勿体無い。けれど熱すぎてこれでは当初の目的を達成できない。諦めてさっと浸かって終わるか、それともある程度冷めるまで待つか。なかなか難しい問題だ。
一先ずまだ洗ってもいなかった髪やら体やらを洗って様子を見てみると、まあいけそうな温度になったので長風呂を決行することにした。お供のアヒル隊長を浮かべて一緒に茹だる。
頭に迷彩帽を被り、平常時は黄色のくせに湯に浸かると段々白くなっていくこの微妙にシュールなオモチャを持ち込んだのは弘人だ。茹でられて可愛らしく赤くなるのではなく白くなるのが気に入ったとかで爆笑していた弟に正直引いた。
そうなのだ。弘人は我が弟ながらちょっとどうなのかと思うようなところもあるのだ。穏やかで優しげな大人の男だなんだと持て囃されているが、そんなものは世を忍ぶ仮の姿に他ならない。
白くなってきたアヒル隊長と一緒に湊の視界も湯気で薄ぼんやり白くなっていく。
思考回路があやふやに接続されて、今夜は何も考えないと決めたはずなのに、白い浴室内を視線が彷徨い始めた。
たとえば、このアヒル隊長をダシにして入浴に誘ってきた、悪巧み中の顔だとか。
たとえば、湊の物の隣にいつの間にか増えている弘人のシャンプーたちだとか。
たとえば、あまり一緒に入りたがらない自分を何とかその気にさせようと躍起になってタイルに貼っていた、アホなデコレーションシールだとか。
安っぽいラブホテルのようないかがわしいバスルームにされた時には本気で追い出そうと思ったものだ。
「……はあ……」
――――どうしてうちの弟は、あんなにあんぽんたんなのだろう。
実の兄をストーカーするわ、かと思えば押すべきところでもじもじしているわ、やっと互いに素直になれたかと思えば記憶を失くすわ。
湊の部屋には、歯ブラシだって弘人の分が常備されている。二人で出かけた時の写真もあるし、思い出の一つになった品だってある。弘人のお気に入りのクッションは、いつも彼がテレビを見ていた場所に置きっ放しだし、食器や枕も言わずもがな状態だ。
こんな部屋で、湊一人だけが弘人との過去を抱えて生活している。
それは、思っていたよりもずっと深刻に、彼を消耗させていた。
予定時間よりも長く浸かっていた風呂から出た湊が、ビールだけを空きっ腹に入れて寝ようとした時、マンション入り口のインターフォンが鳴った。
時刻は午後九時を回ったばかりで酷く遅いわけではないが、この時間に訪ねて来る知人はそういない。
首を傾げて応答すると、遠慮がちな名乗りがあって目を瞠った。
『遅くにすみません、弘人です』
一階のインターフォンを押す知人、のカテゴリに分類されていなかった男の来訪に驚いて、一瞬詰まってしまった湊の反応をどう受け取ったのか、機械越しの彼は幾分焦ったように二の句を継いだ。
『あの、お土産! お土産持ってきたんです。日にち保たないやつだし、次来られるのいつになるかも分からないから、お願いします、今日渡したいんです。中に入れてください』
なぜ人を土産で釣ろうとしているのか。
自分が物に釣られる男だとでも思っているのかと真面目に憤っても構わない場面だったが、あまりの必死さについ笑ってしまって、その雰囲気が伝わった弘人がほっと息を吐いていた。
それだけの、やり取りにも満たないささやかな接触ですら、じんわりと胸を温かくする。
顔を見てしまえば明日からまた一層辛くなると分かっているのに、今点ってしまった温もりを無視できなくて、結局湊はオートロックを解除して弘人を部屋に呼んだ。
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