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第56話
解放されてすぐに体内に取り込んだ薬物を抜く処置を施され、一日安静にしていたら随分頭はクリアになっていた。
しかし一向に兄のことは思い出せない。付きっ切りで様子を見ていてくれた湊に申し訳なく思いながらそう告げると、彼は一瞬の間を置いて仕方がないと微笑んだ。
だがその微笑は綺麗過ぎて、弘人の不安を呼んだ。魂のない人形のようなその完璧さは、生身の人が纏って良いものではなかった。
監督やマネージャーに、身内らしく今後の弘人の様子を注意深く見守るように頼んだ兄は、これから東京に帰る。その前の一服と、今は車に寄りかかって煙草を吸っている。
弘人に背を向けて、白い煙を吐き出している彼の表情は分からない。
今を逃せばしばらく会えなくなる。どう声を掛けたものか悩みながらも、弘人はそろそろと彼に近づいていった。
「あの……」
腕を組んでどこか遠い眼をしている兄は、記憶のあるなしに関わらず何だか遠い人のようだ。
着替えも持たずに駆けつけてくれた彼は、今はスーツではなく弘人の服を着ている。その彼と自分が並んだ姿を見て、美形なんていくらでも見慣れているはずのドラマの関係者たちがうっとりと見惚れていた。そうなるのも納得がいく程、兄という人の姿は抜群に良い。
その彼が時折浮かべる、生気に乏しい表情が、だからこそ余計に目に付いて酷く気にかかった。声を掛けても無反応の今も、もしかしたらそんな表情をしているのかもしれない。
彼がそんな顔をする理由は間違いなく弘人だ。それは分かっている。たった一人の家族が自分のことだけを忘れてしまったのだ。それがどれ程彼に衝撃を与えたのか、想像に難くない。
歳の差から考えても、両親を亡くした後の自分を支えてくれたのは間違いなく兄である彼だったろう。そんな人を忘れた自分を見て、辛くないはずがない。
「……湊さん」
兄さん、と呼びかけられない自分が歯痒かった。
一緒に過ごした昨日一日、名前で呼ぶ度に複雑な眼をする彼に気付きながらも、知り合って間もないような人を兄とはどうしても呼べなかった。弘人の葛藤に気付いた彼が何も言わないでいてくれたことに、正直なところほっとしている。
今日も変わらなかった呼びかけに、一拍置いて煙草を消した彼が振り返った。こちらを見遣った瞳が穏やかなものであることを確認して、安心する。その瞳を作るために彼が要した努力にも気付かずに。
「帰り、気をつけて……ください。その、疲れてるだろうから」
「ああ、うん。気をつけるから、心配しなくていいよ」
「でも……」
ぎこちない弘人に目を細めて、湊は何でもないように笑う。その笑みがやはり空虚に見えて仕方なくて、けれどどうしていいかも分からなくて、弘人は口を噤んで立ち尽くした。
完全に他人で、本当に初対面の人なのだったら、ここまで気兼ねはしない。けれどそうではないから。弘人が覚えていなくても彼が覚えていて、その確かに他人とは違う距離感に戸惑ってしまう。
弘人のそんな戸惑いも彼は容易く汲んでしまうようで、こういう時にはさらりと距離を取ってくれていた。この時もそうで、次の言葉が見つからない弘人に軽く手を挙げて、彼はさっさと車に乗り込んでしまった。
窓越しに横顔を見た瞬間、なぜか安堵よりも先に焦燥が込み上げる。
ヒーローのように助けに来てくれた人がいなくなってしまうからなのか。戸惑いつつももう少し、兄である人の近くにいたかったのか。よく分からないながらも、エンジンをかける彼を行かせたくなくて、弘人はついドアを引き開けた。
「どうした?」
鍵のかかっていなかったドアは簡単に開き、湊が驚いて弘人を見上げる。衝動のままにシートベルトを引っ掛けている腕を掴むが、そこまでだった。
引き止める言葉はなく、車から湊を引き摺り出すでもなく。
ただ腕を掴んで切羽詰った顔で見下ろす弘人を推し量るように見上げていた湊が、ふ、と何かを諦めたように息を吐いた。
逸らされた眼差しの色に、胸がひやりと軋む。
それ以上の行動に出られない弘人の手をそっと外した彼は、一言じゃあなと呟いてドアを閉めた。
走り去る車が見えなくなるまで見つめながら、眼差しの意味を考える。
置いて行かれた自分ではなく、置いて行った彼の方が、切ない眼をしていたのはなぜなのか。
このまま、記憶が戻るまで何もせずにいていいのか。
――――自分たちはこんなぎこちない距離のままで、良いのだろうか。
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