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第55話

 南方は、その事に関しては何も言ってはいなかった。  ――――言えなかったのかも、しれない。  やっとこの眼で弘人を確かめられた、そう思って緩んだ顔がそれを見て強張った。  立ち上がった弘人と一緒に動いた物。彼の腰に繋がれた、鈍色の。 「――……」  はらわたが、煮えくり返るとはこういうことか。  あまりの怒りに目が眩んだ。  腹の底から湧いてくる凶暴な衝動を今までのように抑えることも出来ず、握り締めた拳を格子に叩き付ける。  暗い空間に響いた鈍い音と、背後からの息を呑んだ音で自分の行いを理解したが、みっともない姿を晒した事も、驚かせた事も謝る気にはなれなかった。 「……っ」  酷く感情的になっている自覚はある。殴りつけた格子をもう一度掴んで、手のひらが傷つけられるままに歯を食い縛った。  そうやって痛みを借りてでも自身を抑制しなければ、背後で身を竦めている老人に何をしてしまうか分からなかった。 「……あの、もしかして……」  一触即発の張り詰めた空気の中、ぼんやりと湊を見ていた弘人が覚束無い足取りで近寄ってくる。  粗い木を握り締めている指を一本ずつ丁寧に解かれ、久しぶりに触れた弘人の体温に決壊間際だった激情が宥められていく。  そうして、分かっていたはずなのに。 「俺の、兄、……ですか?」  頼りない声と、他人を見るその眼に、心ごと凍らされた。  弟を即座に解放させて牢から連れ出した時には、家人が起き出す時刻になっていた。  湊の怒気に身を竦ませていた村長は、我に返ると急な展開に戸惑う弘人に額を擦り付けて詫びた。  全身から滲む後悔と覚悟に責める気を殺がれた弘人は、とりあえず許す許さないは置いておくことにして、それよりも先に陽の当たる場所を求めた。長い監禁生活で体内時計は完全に狂い、陽射しを浴びることのなかった肉体は切実に太陽光を欲していたのだ。  弘人を屋敷の外へ連れ出した後、此度の協力者である家人たちに事の成り行きを説明するよう促した湊に従い、村長は家中に戻っていった。  直後、二人の姿に気づいて駆け寄ってきた監督と南方に弘人を託し、再会を喜ぶ輪から一人離れ近場の井戸へ向かう。  一歩進む毎に悪寒のように這い上がってくる疲労感が凄まじかった。  村長宅の塀を周った先にある井戸の縁に座り込み、離れた場所で交わされる言葉と、日野が防空壕の入り口で見張り番をしている助監督を携帯で呼び戻している声を聞きながら、桶を吊るしているロープを引き寄せる。  途端、びり、と痺れるような痛みが走って手を離した。大して浮いていなかった桶がまた沈んでいく小さな音を聞いて、だらりと腕を垂らす。  ――――太陽の光を浴びた弘人は、暗い場所にいた時よりも元気そうに見えて安心した。多少面窶れて顔色は悪いが、その内元通りになるだろう。  そう、兄との記憶以外は、すぐに。  足元を覆う疲労感が徒労感に変わっていく。彼を助け出す事が最優先で、それを完遂できた今、これ以上は望むべくもないのに。  何よりも、誰よりも、弘人が無事だったことを喜びたい。なのに。  顔を洗って気持ちを切り替えて、皆と一緒に弘人の帰還を喜ぶはずだった。この後再び村長とその家族に最終的な話をつける予定で、だから、早く普段の自分を取り戻さなければならなくて。  だから。  だから、早く。  水を汲んで。色々なものを洗い流して。  皆の所へ戻れるように、早く。 「…………」  膝に肘をついて、心を映したような拳を額に当てる。  じくじく痛んだ。それ以上に体が鉛のように重くて、動くことを拒否する。  薬の効果はいつまでと言っていただろうか。体内から薬物が消えたら、記憶が戻ると言っていただろうか。一ヶ月をかけて念入りに仕込まれたものを治すには、どの程度の時間をかければ良いのだろうか。  ――――そもそも、一度失われた記憶が、元に戻るなどあり得るのだろうか。  寒い。  弘人を救い出す昨夜よりも、今の方が余程寒く感じた。 『俺の、兄、……ですか?』  躊躇いがちな、確認作業。  赤の他人を見る眼差し。  指の強張りを解いてくれた手は確かに弘人のものだったのに、彼を取り戻せた実感は、どうしても湧かなかった。

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