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第54話
自分のくしゃみにびくりとして、弘人は浅い夢の中からゆっくりと浮上してきた。
ここに捕らえられてから久しぶりに見る夢だった。抽象的で、物の形すらまともに紡げていなかったが、酷く安心できる夢だった。
南方に教えられた兄の存在。向けられた言葉の数々。それらが起因したものであることは確かだろうに、夢の中でさえも兄という人物を思い描けず、それが残念でならなかった。
もしかしたらもう一生、会うこともできないかもしれないのに。
いや、だが、兄がこの村にやって来て、自分と同様捕らえられるよりは。一生会えず、思い出せず、関わらないままの方が余程いい。
…………けれど、本当は。
掛布を巻き込んでごろりと寝返りを打つ。冷えた空気から身を守るように、弘人は更に丸くなった。
自分に残されていた唯一の身内。兄弟。家族。
自分たちはどんな風に生きてきたのだろう。たった二人になった家族を、どんな風に守ってきたのだろう。
知りたい。
失ってしまった記憶を取り戻せないのなら、同じ記憶を共有している彼に会って、話を聞きたい。穴が開いた記憶を補って、この不安定に空々しい心を埋めたい。
そのくらい思っても罰は当たらないはずだ。村に骨を埋めることを完全に受け入れたわけではないし、逃げる算段も考えているけれど、状況は弘人にとって限りなく絶望的なのだから。
布団の下でとぐろを巻く鎖。出入り口を封鎖する格子。明かり取りのためだけに作られた小窓は人が通り抜けられる大きさではなく。
自力でどうにかできるレベルではない現状に、弘人は昨夜から何度目かも分からない溜息を零した。
――――映画や漫画なら、こんなピンチの時にはどこからともなくヒーローが颯爽と現れて助けてくれるのに。
布団に突っ伏したまま、自棄気味にヒロイン思考を呟いた弘人の耳に、廊下を歩いてくる足音が届いた。
こんな夜も明けきらない時間に誰かがやってくるなど初めてのことで、訝しげに布団から顔を出す。しかも足音は複数、最低でも二人だ。
何かあったのかとそのままじっと待っていたら、入り口の明かりの中、予想に違わず二人分の姿が浮かんだ。
一人は見慣れた村長。もう一人はスーツ姿の若い男。
見慣れない男を目を凝らして見つめ、弘人ははっと上体を起こした。
まさか。
「――弘人」
柔らかな。
場に似つかわしくないほどに穏やかなイントネーションで名を呼ばれて、体が震えた。
聞き覚えはないのに。
知らない人なのに。
なのに、体と無意識の心の反応は顕著だった。
その人が村長を追い越し、格子の傍に来る。ささくれ立っている格子を掴んだ手を見てぼんやりと、ああ、棘が刺さってしまうと思った。滑らかなあの手が傷ついてしまう、と。
知らないはずの手の感触を無意識に思い浮かべて、止めようと弘人は立ち上がった。その拍子に鎖が引き摺られ、重たい音が響く。
音につられて弘人の腰元を見た彼が、何か言おうと開いていた唇を閉じた。
ここに現れた時の南方と同じ驚愕の、そしてそれ以上に強い憤怒の感情がその貌を覆っていく。
そんな場合ではないのだが、動きの遅い脳が辿々しくそれを捉え、美人は怒ったら怖いって本当なんだな、でも綺麗だな、などと弘人は暢気な感想を懐いた。
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