53 / 76
第53話
仄かな灯りに照らされて、静かにこちらを見据えるだけのその姿に、老人は雷に打たれたように全身を硬直させた。
ぬばたまの黒髪を後ろに流した髪型、秀でた額から鼻梁へ流れる形、きつい切れ長の美しい双眼。記憶通りの姿勢の良い立ち姿が、記憶にあるよりも細身に見えるのは、自分の子どもの頃の印象が強いからだろうか。
ふらり、体が傾く。
反動で一歩踏み出した足は、それを皮切りに駆け出す速さで彼の許へ向かった。
勝手に動く体に反して衝撃に貫かれた心は麻痺したまま動かない。
それでも老人の節くれ立った手は、目を瞠った彼の人の手を鷲掴み、肉に食い込むほど強く強く握り締めた。
「――…お帰りなさいませ、篤仁様……!」
皺深い顔を混乱と涙で歪めた老人が足元に跪く。
この体が現実のものか確かめるように、異常に力の篭った枯れ木のような指が手から腕に移動し、肩を這い、スーツを握り締める。
予想以上の錯乱ぶりに戸惑った湊は、止めることもできずされるがままだ。自分の服を掴んでおいおいと号泣し始めた老人の、見た目の年齢のわりに豊かな頭髪を困り果てた顔で見下ろした。
「落ち着いてください。村長の、南方京史朗さんですね?」
この台詞は本日二度目だなと思いながら、孫娘にしたように老人の肩に手を置く。
だが孫と違って、祖父は掛けられた声を聞いて顔を弾き上げ、更に涙を溢れさせた。
「……っ、お待ち申しておりました……っ!」
どうやらこの声も、曽祖父に良く似ているらしい。
子どものようにわんわん声を上げ出した老人をどうしようかと迷った末に、取り縋る頭を抱き込んでゆっくりとしたリズムで背中を叩いてみた。
懸命に噎び泣く彼の姿から、如何に曽祖父が彼にとって大きな存在なのかがよく分かる――良くも悪くも。
自然と応えるための言葉が零れた。
「お待たせしました……私は橘篤仁ではないけれど、貴方の力になれる人間です。落ち着いて、少し、話しをしましょう」
南方から朧に聞いた、弘人監禁事件の動機。
あくまで彼女の予想の範疇ではあったが、恐らく間違ってはいない。
南方京史朗は湊の宥める声音に泣き濡れた顔を上げ、ようやく彼を正しく認識したようだった。
「あ……あな、たは……どなた、です」
「私は、橘篤仁の曾孫の、海津湊です。うちの弟がこちらでお世話になっていると聞いたので、迎えに来ました」
「弘人様、の……」
「はい、兄です」
様付けで呼ぶ相手を無闇に扱いはしないだろう。
弘人の環境は南方に聞いた限りでは、薬を盛られているという非人道的なもの以外はきちんと整えられているらしかったが、京史朗の様子である程度は察せてほっとした。この様子なら衰弱死寸前だとか、そこまで悲惨な状況ではないはずだ。
先に畳に腰を下ろし、向かいを促すと村長は戸惑いながらも素直に従った。
この顔の効力は思っていた以上に大きいらしい。
さっさとこの異常事態からの脱却を図るためその効果を最大限に活用して、湊は凝視してくる老人に取引を持ちかけた。
「弘人を私に返してください。代わりに私が、貴方の願いを叶えます」
「……私の願いを、ご存知なのですか」
「村の復興……いや、この土地からの解放、かな」
呟いた言葉に眼を剥いた京史朗に、湊はちらと笑ってみせた。
懐から落とさないように縛り付けていた冊子を取り出し、真向かいに差し出す。
「曽祖父が書いたものです。どうぞ、ご覧ください」
「篤仁様が……」
触れた途端に溶けて消えるような気がして、躊躇いながら古紙の束を手に取った京史朗は、表紙に堂々と書かれた文字をじっと見つめた。
流麗な筆跡は間違いなく橘のものだ。村に残された橘の文字を、この半世紀以上の歳月見つめ続けてきたのだから見間違うはずがない。
緊張と恐怖にも似た畏れの感情に震える指先で、一枚紙を捲る。途端飛び込んできた文言に、京史朗は落ち窪んだ眼を見開いた。
「そこに書かれている名は、貴方のものですね。隣の文字は、この村の名前かな」
「……そう、です……」
曽祖父が仲間と共に作った本には、この村を創るに至った経緯と理由、指導者に選んだ一族の事、村人たちの素朴な様子など、当時の情景が物語りのように描かれていた。
これを見つけて一読してみた時は、単純に曽祖父と仲間たちの創作だと思っていたが、実在する村と人物を知った今はそれらが全て過去にあった事実だったのだと分かる。
登場人物としての現村長は、四歳の幼子時代から書かれていた。橘の愛娘と同じ年頃の子どもが殊更愛おしい様子が伝わってくる、情に満ちた書かれ方だ。
本には、村を創った橘の複雑な心境が赤裸々に記されていた。後半につれて心の乱れを映すように筆跡が崩れ、その辺りからは湊もまだきちんと読めていない。ただ、書いてある内容は何となくだが理解できる気がした。
自分が曽祖父と同じ時代に生き、同じような体験を経て同じ行動を取るとしたら、その先に思うこともきっと似たり寄ったりだろうから。
他人が生きる道を創るという行為は、暴挙にも等しい。
京史朗のように、苦しみ抜く人間を作ってしまうことにもなるのがその証拠だ。
最後のページまで黙々と読み進めた老人は、酷く複雑そうな表情をしていた。現人神とも彼らの始祖とも崇めていた人物の生々しい人間としての感情を目の当たりにして、色々と崩れるものもあっただろう。
けれど同時に救われるものもあるはずだ。
曽祖父が始めたことを、湊と弘人が引き継ぎ、今度こそ完全に橘からこの村の人々へ全てを明け渡す。
それこそが、弘人と自分がこの村に呼ばれた意味だと湊は確信していた。
ともだちにシェアしよう!