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第58話

 千葉から東京へ帰ってきたのは昼頃だった。  自分のマンションに帰って溜まった家事をこなし、人心地ついた後やはり失った記憶が気になり出した弘人は、何か思い出せるものはないかと部屋中を探し回った。その結果、色々と困惑せざるを得ない物をいくつか見つけた。  それらについて自分が一人で想像してみても意味はない。何と言っても虫食いだらけの頭なのだ。  そう結論付け、兄の仕事が終わる頃を見計らって携帯に登録されていた彼の家までやってきたのだが。  彼の部屋の前に立って、扉が開く瞬間を待っている。  その事自体、いつだったか経験したことがある気がしていたが、扉を開いた湊の姿を見た途端それははっきりとした既視感となっていた。  むしろこれが所謂記憶というものなのかもしれない。  風呂上がりらしく生乾きの髪が下ろされている姿は、初めて見たのに妙に懐かしい。髪を下ろすとぐっと若く見えて、それを気にして普段は上げているのだろうかと思った程だ。  彼が身動ぐとパジャマの中で体が泳いで、それに妙に目が向いた。寛ぐ時には大きめのものをゆったりと着るのが好みなのだろうか。  そんな些細な情報を、まるで重要な事のように頭に入れる自分がいる。  室内の光を背負った彼は、読めない表情で弘人を迎え入れた。  歓迎ではないが迷惑そうでもない、何とも曖昧な顔だ。けれど中へ入れてくれるということは少なくとも拒絶はされていないはずで。  そこを頼りに上がり込んだ。 「好きなとこに座ってて。何か飲み物持ってくるから」 「あ、はい」  リビングにぽつんと置かれた深緑のクッションが目に付いて、何となくその傍に座ってふかふかのそれを膝に抱きかかえた。その場所から改めて周りを見渡して気付く。  この位置からならば、テレビを見るにもキッチンに立つ湊を見るにも丁度良い。さり気なく見ていても気付かれ難い、そんなベストポジションだ。  もしかして、ここは記憶があった頃の自分の定位置だったのではないだろうか。平坂から聞き出した以前の自分は随分なブラコンだったらしいし、その可能性は大だろう。 「はい、お茶でいい……か……」  グラスを二つ手に持った湊が、弘人を見て言葉と動きを止めた。リビングに戻ってきて自然とこちらを見た動作と、その不自然な固まり方を見てやはりそうなのだろうと確信する。 「……お前……、思い、出し……。……いや、そういうわけじゃない、か」 「はい、すみません」 「いや、俺の方こそ、……」  短く押し出された吐息に隠し切れない落胆が滲んでいて、申し訳なく思うと同時に少しだけもやっとしたものが生まれた。彼が如何に以前の自分を求めているか、今の一瞬で垣間見させられてあまり面白くないものを感じる。  今の自分がそれを不愉快に感じる、その心の動きを追求するのは後に回して、とりあえず気まずくなった空気を払拭するために、テーブルにグラスを置いた湊にわざと明るく話しかけた。 「はいこれ、お土産です。千葉といえば落花生ですよね。それにあの村の人たちがお詫びにって色々くれたんで、そのお裾分けと。あと野菜」 「え」 「俺的には野菜がメインです。はい」 「え、あ、ありがとう」 「どういたしまして」  にっこり笑って持ってきた土産を紙袋ごと押し付けると、湊は何度か袋と弘人を交互に見て受け取ってくれた。その顔が何か言いたそうだったから首を傾げて待ってみたら、躊躇いがちに質問される。 「その……なんで野菜?」 「え、何でって」  そんなことかと笑った。 「湊さん、タバコ吸うでしょ。止めろとは言わないけど、その分せめて野菜たくさん食べさせないとなあって。血どろどろになっちゃったらヤでしょ?」 「…………」  湊への土産は何がいいか考えた時、真っ先に浮かんだのは特産品でも何でもなくて、彼が煙草を吸っていた姿だった。その瞬間に渡したい物は自動的に決まっていた。  本当は野菜ジュースやサプリメント等の手軽に摂れるものも入れたかったのだが、そうしたら何となく食事をそれだけで終えるのではないかと危惧して入れなかった。きっちりしているように見える人だから気の回しすぎかもしれないが、そんな人に限って自分に対してはズボラだったりするから。 「……そう……だった、のか……」  言葉を失った湊の雰囲気が不意に変わった。  弘人を見つめる瞳が、何かを強く湛えている。見ている方が痛いような情を浮かべ、狂おしく誰かを想っている、そんな表情を見せられて弘人は眉を寄せた。  人形とはかけ離れた貌だった。掴み所がないように思えた人の、生々しい感情が自分を通した誰かに向けられている。  その不快感は、酷く耐え難いもので。 「あの、湊さん」  彼が見ているのは自分ではない。少なくとも、今の自分では。  それが無性にやるせなかった。  彼が知っている弘人ではなく、今こうしてここに居る自分自身を見させたい。湊の気持ちは分かるが、自分だって大事だったはずの記憶を失って心細いのだ。それを兄に補って欲しいと望むのはそうおかしな事ではないのだから、いつまでも以前の弘人ばかり探すのではなく、今の自分を見て欲しかった。  先程からのもやもやの正体がこれではっきりした。手前勝手な欲求に呆れはするが、それが弘人の正直な想いだ。  二人の関係をより建設的な方向へ促すため、ぼんやりしている湊に手を伸ばす。力ない肩に手を置いて、強制的にこちらへ意識を奪うつもりだった。  だが、触れた途端過剰なまでに震えられるという、思わぬ反応を返され呆気に取られる。 「っ……ご、ごめん」 「あ、いえ、こちらこそ……」  先程とは逆の立場で同じやり取りを繰り広げた後、さり気なく湊が二人の間に距離を作る。  村で出会ってからの距離の取り方とは全く違うそれに、弘人の中で訝しさが増した。 「土産、ありがとう。野菜もちゃんと食べるから、安心して」  明日も仕事だろうと、目を合わさずに話を切り上げようとする湊を数秒無言で見つめ、膝を詰めてみた。 「………」 「……」  じり、と詰めた分だけ下がられる。 「……どうして逃げるんですか」 「いや……特に意味はない」  明らかに顔色が悪くなっているのに、いけしゃあしゃあとそんな事を言う。 「嘘だ」 「じゃあ、人見知りなんだ」 「じゃあって何ですか。それに俺、貴方の弟ですよね?」 「そうだけど、違う」 「…………」  同意と、否定。  今度は弘人が言葉に詰まった。  湊も言うつもりはなかったのだろう、ぽろりと零してしまった自分の言葉にあからさまに動揺している。  重い沈黙が落ちた。  このままではいけない、強くそう思う。だがどうすればいいのか。どうすれば彼との距離を縮められるのか。物理的にも、心理的にも。  訊きたい事がたくさんあるのだ。これまでの二人の思い出話だとか、弘人の部屋にあった物の事だとか。本当は、自分たちはどんな風に付き合っていたのかとか。  平坂から取れる証言だけの繋がりとはどうしても思えなかった。根拠はいくつかあるが、それも湊と話し合えなければ答えが出ない。しかし今の彼から無理矢理話を引き出しても、それは弘人が納得できるものにはならない気がした。  距離を縮めるにはどうしたらいいか。考えて、ふっと兄の部屋を見回す。  ――――ああ、そうか。 「湊さん、俺をしばらく、ここに住まわせてください」 「え……?」  ぽかん、まさにその形容がしっくりくる表情で、彼は弘人を見返してきた。

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