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第59話
無理だ。
唐突な男の願いに、湊は何よりもまずそう思った。
どうしてまたそんな無謀なことを思い付いたのか知らないが、今の己の状態ではそれは自殺行為に等しい。
「悪いけど、お互いに気兼ねするだろうし」
だが、やんわりと断ってみても弘人は引かなかった。
「一緒に生活してたらそのうち気にならなくなりますよ」
「いや、だって、お前にとっては出会ったばかりの他人の家なんだから、もうちょっとよく考えて……」
「でも兄弟なんでしょ? 違うって言われたって、事実そうなんだから」
「うん、いや、そうなんだけどね」
「お願いします。近くにいたら、早く思い出せそうな気がするんです」
「……」
そう言われたら突っぱねるのは難しい。
しかし一緒に暮らしたからといってすぐに記憶が戻る保障はないし、その間弘人と寝起きを共にして、まともでいられる自信がなかった。同じ家で暮らすということは、常に気配を感じる状況から逃れられないということなのだから。
少し触れられた程度でああも動揺した自分が、それに耐え切れるとは思えない。
「湊さん、お願い」
けれど弘人の真剣な懇願を強く拒絶することもできず、湊は内心呻いた。
こういうところでまで弘人に甘いなんて、我ながらバカだと思う。
「……。分かった」
これも諦めの境地か。
この先の苦行を噛み締めて肯くと、弘人がぱっと笑った。
「ありがとうございます」
日向のようなその笑顔は変わらない。
こうやって違う所と変わらない所を、間近で数えていくことになるのだろう。
それはどんな責め苦なのか、想像もしたくなかった。
――――予防策を張ろう。
同居が始まって一週間もしない内に、湊は早々と対策を立てた。
タイミング悪く、先日まで手掛けていた仕事が一段落して小康状態が続いているため定刻で帰れる日が多いが、そこは無理に仕事を作って居残る。
そうやってできるだけ会社に残り、家に帰る時間を遅らせて弘人と顔を合わせる機会を減らした。
逃げでしかない対策で情けないが、背に腹は代えられない。せめて今の弘人と向き合う心の準備を整えてから、彼との時間は増やしていくべきなのだ。
そうでないと自分が保たない。
根本的解決にはならないが、暫定処置として打ち立てたそれに従って、今日も資料室の整理のため居残った湊を窺いながら部下たちは帰宅していった。
無駄に残る理由を尋ねられたらプロジェクトの大詰めの最中に抜け出した罪滅ぼしだと答えるようにしているが、そのまま信じてくれる素直な部下は残念ながらいない。最近では湊が帰りたがらないという噂を聞きつけて、様々な立場の人間が自主的に居残り中の彼の許へ遊びにくる始末だった。
つい先程も資料室に常務が現れ、整理中の湊に散々愚痴を零して去っていった。零すついでに手伝ってくれたのはいいが、専務に対する愚痴など聞かされた所で一管理職に何を言えることがあろうか。
それでも満足そうに退出していった常務と入れ替わりに、今度はすでに帰ったと思っていた小野瀬が現れた。手にコンビニ袋を提げている。
「お疲れ様です、部長。ちょっと一息入れませんか? 差し入れ持ってきたので」
「差し入れって……別に仕事じゃないんだからそんな気を遣うなよ。でも、ありがとう」
私事で居残っているだけなのに気遣われて申し訳ないが、その気持ちが嬉しくて微笑む。
真っ直ぐに伝わったようで照れた小野瀬から袋を受け取り、せっかくだから二人で休憩を取ることにした。
就業時間を過ぎた休憩スペースには人がいない。窓際のテーブルについて、差し入れの珈琲を一口飲むと思わず長息が漏れた。
それを見た小野瀬が苦笑する。
「何か部長、忙しかった時より疲れてません?」
「あー……」
「最近よく残っていらっしゃるのも理由があるんでしょうけど、休める時に休んでおかないと体壊しますよ」
「そうだな」
休みたいけれど、休めるはずの場所が今は一番休めないのだから仕方が無い。
伏し目がちに短く肯定する湊は明らかに思い悩んでいる風情なのだが、それを部下に言うつもりはないのだろう。見えない壁を感じて、小野瀬はそれ以上の小言を止めた。
そうしてしばらく世間話に興じて今度こそ帰宅していった小野瀬を見送って時計を見ると、程よい時間になっている。
今日のところはこれで引き上げるかと、部下に心配をかけてしまった事を反省しながら湊はやっと重い腰を上げた。
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