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第60話

 電話を切って、弘人は腕を組んで考え込んだ。  乗り気でない兄を説得してまんまと押し掛けてみたは良いものの、二人の距離はますます遠ざかってしまっていた。  兄は連日遅くに帰ってきて、翌朝も早いからとさっさと寝てしまいゆっくり話しをする暇もない。  そんな忙しい人に無理を言って悪かったなあなどと先程までは殊勝に反省していたのだが、今の電話でどうやら意図的に避けられているらしい事が判明して、弘人は低く唸った。  今夜もどうせ終電ぎりぎりで帰ってくるのだろうが、どうしてくれようか。  逃げ回っていたってどうしようもないのだと思い知らせて、自分に向き合わせるにはどんな手が必要か考えなければならない。 「……にしてもなあ……。やっぱ変だよな」  湊のこうした行動は、弘人が感じ続けている違和感をますます強めていた。  弘人が覚えていないだけで実の兄弟なのに。それも周りから見て仲が良いと形容されるような。  なのに、湊は弘人を治すために関わってこようとしないのだ。むしろ弘人の何かを恐れてでもいるかのように避け続ける。  いつまで往生際悪く逃げ続ける気かしばらく様子を見てみるのも手かもしれない。無理に追えば全力で逃げられそうな気がするし、湊とて弘人の扱いをまだ決め兼ねているだけかもしれないから、あまり突っ走るのは得策ではないだろう。 「うん」  もう少し様子を見よう、そう決めたタイミングを見計らったように、玄関の方から解錠音がした。  いつもより早く帰宅した湊は、迎えに出てきた弘人を見て外気に晒され白くなった頬を緩めた。  一緒に暮らし始めてからやっと見られた柔らかい表情に、お、と思う。 「おかえりなさい。もう結構寒いでしょ、夜だと」 「ただいま。雪降るかもね、えらく寒いよ」 「初雪? さすがにまだ早いんじゃないかなあ。ああでも降ったらコタツ出してもいいですね」 「うちにあったかなあ」 「無ければ買いに行きましょ」 「うん」  かつてなく滑らかに、それもごく自然に話せていることに弘人は密かに感動した。警戒心の強い野生動物が少しだけ近寄ってくれたような、奇妙な喜びを感じる。  コートを脱いでリビングへ向かう兄の後ろをついて歩きながらその喜びを噛み締めていたら、入り口で立ち止まった湊があれ、と呟いていてはっとした。  しまった、忘れていた。 「夕食、……俺の分も?」 「いや、これは……えっと」  慌てて夕飯の並んだテーブルを背にして隠すがもう意味がない。テーブルにはきちんとそれぞれの箸まで用意されていて、一目瞭然だ。  湊の眉が困ったように寄った。 「……もしかして、今までずっと作ってくれてた?」 「あー……その」  実は同居を始めてすぐに、湊の分の夕食は要らない旨を伝えられていた。帰りはいつも遅くなるから、と。  それでも早く帰れる日があったらすぐに食べられるように毎日彼の分も一緒に作っていたのだが、できればそれは知られたくなかった事実だ。 「や、すみません、何かお節介な母親か重たい彼女みたいですよねこれ。ごめんなさい」  要らないと言われたのに用意しておくなんて厚意の押し付けのような真似は、自分がされたら嫌だ。なのにやらずにはいられなかった。  こんなに相手の意思を無視した行為を繰り返していたのは初めてだ。  だが、項垂れた弘人に向けられたのは嬉しそうな瞳と、後悔の乗った表情だった。 「残ったのはどうしてたんだ? 残飯は出てなかっただろ」 「次の日の俺の朝飯にしてたから」 「……そうか、俺の方が早く出てたから、気付かなかったな」  なぜだかしんみり呟いた彼は、スーツの上着も脱いでテーブルに着いた。それを見て、項垂れていた頭をばっと上げた弘人を手招いてくる。  食べてくれるのか、一緒に。 「早く座って。冷めるよ」 「い、いいんですか、俺と一緒で」 「え?」  何言ってんだみたいな顔で見られても、弘人の不安は拭えない。つい先程避けられている確証を得たばかりなのだから。  おずおず向かいに座った弘人の様子から感じるものがあったらしく、湊は更に悔いる顔をした。だが何も言わずに箸を手に取る。嘘を吐いていた手前、何も言えないのだろう。  ただ、静かな食卓でぽつりと一言だけ零された謝罪の言葉には、色々な重みがあって意味を尋ねる事はできなかった。

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