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第61話

 スーパーの惣菜ではなくきちんと作られた料理。会話は弾まなかったけれど向かいに弘人が居た食事空間。食器を洗って、風呂に入って眠るまでの彼との空気は穏やかで。  以前とあまり変わらない優しい時間だった。  記憶が無くなっても変わらず大切な弟には違いない。湊にとっては。けれど弘人にとってはそうではないのだ。今共に居る時間だけで再び兄弟としての絆を結び直せるとは思えないし、結べたとしてもどこかぎこちないものになるのは明白だった。  それに。  寝室に設置してある机に歩み寄る。そこに飾っていた間抜けな顔の狸面を手に取り、じっと見つめた。  それに、弟としての弘人を取り戻すだけでは、もう足りない。  けれど、言えるはずがない。自分たちの本当の関係を、今の弘人に言えるはずがないではないか。兄弟で恋人で、肉体関係もすでにあるなんて、そんなことを。  今の弘人の常識の中では当然兄弟でどうこうというものはないだろう。男同士はどうか知らないが、兄弟は。さすがに。  そんな人相手にうっかりでもぶちまけようものならどんな顔をされるか分からない。それだけならまだしも、知られてしまったが最後、今度こそ自分の意思で湊から遠く離れてしまうかもしれない。  いずれは戻る記憶だと期待して待つことも可能だが、戻るまでに取り返しのつかない状況になってしまっては意味がないのだ。だからこそ湊は弘人を警戒した。目の前にいる彼につい本心を晒しそうになる自分を警戒していた。  ……しかし、そうして距離を取っていた間、今の弘人が抱えている気持ちから眼を逸らしていたのを、昨夜の件で気付かされた。  自分を守ることでいっぱいいっぱいになって、慣れない部屋で一人、湊の帰りを待っていた彼のことを考えてやれていなかった。毎日作る二人分の食事を一人で処理する虚しさを、そうさせてしまっていた自分の弱さを、謝ったところで取り消せるわけではないのに。  蔑ろにしてしまっていた今の弘人の存在を、改めてよく見てみよう。今何を考えて何をするためにここに居るのか、もう一度よく。  思い出だとか以前の関係だとか、そういったどうしようもないものは一旦脇に避けておいて、今現在の彼との新しい関係を構築してみようと、やっと思えた朝だった。  それからの湊は会社に居残ることをやめ、仕事が終わると真っ直ぐ家に帰るようになった。  健全な生活に戻った彼に部下や周囲の人々はほっとした顔を見せ、こんなところでも周りが見えていなかったのだと反省する。  早く帰ってくるようになった湊を誰よりも喜んだのは、やはり弘人だった。あれから帰る前には連絡を一本入れるようになって、その度に夕飯を準備してくれている。  そうやって少しずつ、互いの間に立っていた壁を取り払っていけば、自然と見えてくるものがあった。 「それでこの前日野監督がですね……」  休日を控えた金曜日、弘人は実によく喋った。  元々湊より口数は多い方だったが、最近特に色々と話してくる。それが今の自分を湊に教えるための彼なりの努力だと気付いたから、湊もあの夜以降付き合うようにしていた。  食後のまったりとした空気の中、弘人の話に相槌を打ち、時折茶々を入れていると以前に戻ったような感覚に陥る時がある。その度に自分を戒めるのだが、話を聞けば聞くほどやはり彼は弘人なのだと実感して、今と過去の区別が付き難くなっていた。  物の捉え方や考え方、話の運び方。話の最中に湊の反応を確かめる仕草もそのままで、混乱せずにはいられない。 「聞いてます? 湊さん」 『聞いてる? 兄さん』  ぼうっとする湊を咎める少し棘のある言い方も、拗ねた響きも。  どうしてこんなに似ているのだろう、そう思って、はっとして苦笑した。どうしても何も、同一人物なのだから当たり前だ。  弘人と過ごす時間が増えた分、その分だけ、今の彼を見ようと決めたにも関わらず湧いてくる、そんな無駄な問答も一緒に増えてきた。 「聞いてるよ」 「怪しいなあ。もう眠たいなら、寝ます?」  でもやはり違うのだ。  決定的に違うのだ。  湊がぼんやりしていたら、以前の弘人なら過剰に心配するか、にやにやしながらちょっかいをかけてきた。こんな風にあっさりと切り上げるなど絶対にしなかった。兄を一人で悩ませるよりは怒らせて、溜め込んでいるものを吐き出させる方を選ぶ、そんな弟だったから。  心が落ち窪んでいくのを止められない。  今、ここにいる弘人は何も悪くはないのだ。変な気を遣わせるわけにはいかない。自分が毅然としていなければ、今の弘人が不安を抱えてしまう。  顔を上げて、何でもない、大丈夫と笑うのだ。眠くないから、続きを聞かせてほしいと言わなければ。 「弘人」 「はい」 「……、……おやすみ」 「はい、おやすみなさい」  だけど、恋しかった。こんなに身近にいるのに、弘人が恋しくて堪らなかった。以前の、恋人としても傍に居てくれた、弘人が。  その温もりに触れたがる自分を抑え込むことで、否応なしに独りを痛感する。  けれどどうしようもなくて、悄然と肩を落とすしか今の湊に出来ることはなかった。

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