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第62話

 目に見えて兄の元気が無くなってきたことに、弘人も気付いてはいた。  けれどそれがどうしてなのか分からなくて、どうにもしてやれないのが歯痒かった。  心当たりがないのだ。  二人はあれから改めて、兄弟として過ごすようになった。湊の壁も徐々に薄れて、弘人も必要以上に遠慮をしなくなり、今では順調に仲の良い家族として過不足なく暮らせている。  だから、湊が何に苛まれているのか弘人には分からなかった。弘人自身は、諦めていた家族を手に入れられたことに幸せを感じていたから。  ――――それ故にきっと、今まで感じていたあらゆる違和感を忘れて、そんなことを言えたのだ。  無理に同居する原因となった違和感より、自分の今の満足感を、優先していたから。  その日、遅い時間から始まった仕事のために珍しく弘人よりも湊の方が先に帰っていた。  玄関ドアを開ける前から良い匂いがしていて、今日は兄の夕飯を食べられそうだとうきうき室内へ入るが、キッチンからもどこからも顔を出してこない湊に首を傾げる。  どうしたのだろうと思いながら向かったリビングに、ぼんやりと座り込む後ろ姿を見つけて声を掛けたら、びくりと肩を震わせた彼が素早くテレビを切った。 「ああ、おかえり。気付かなかったよ」 「みたいですね。何観てたんですか?」  何事もない顔で振り返った彼に、様子がおかしそうに見えたのは気のせいだったかと胸を撫で下ろす。  弘人に手を洗ってくるよう指示しながら、湊はキッチンへ向かった。 「ニュースだよ。……芸能ニュースで、お前、出てたよ」 「俺が? 何かしたっけ……」  鍋の前に立つ兄の後ろに立って、かき混ぜているシチューを覗き込む。市販のルーを使っているはずなのに彼の作るシチューは絶品だ。ルー以外にも色々入れているらしいが、とにかく美味しくて弘人好みなのだ。一度食べてから忘れられなくなったそれをちょくちょくリクエストしていたのだが、やっと作ってくれたらしい。  早くも腹の虫が暴れ出して、それを宥めるのに気を逸らしていた弘人は、湊の声が微かに緊張を孕んでいたことに気付いていなかった。 「前にも雑誌に載ってたろ。……南方さんとの噂」 「あー、もしかしてニュースにまでなってるの? 参ったなあ」  事務所が大人同士だからと黙秘を貫いているのをいいことに、一部週刊誌では既成事実でもあるかのように大々的に報じられてしまっている。ついにニュースにまでなったかと、弘人は苦笑した。 「一緒に暮らしてれば、違うってのは分かるけど。でも、ここまで報道されるってことは、当たらずとも遠からずって奴なのか?」 「んー……」  あなただから言うけれどと前置きしたら、眼前の背が揺れた。 「実は、そういう雰囲気になってきてはいるんですよね、確かに。南方さん、いい子だし」 「…………」 「あ、まだ、手は出してないですよ。ドラマも撮り終わってないし、やっぱりそういうのは周りにも迷惑かけちゃうから、ある程度落ち着いてからじゃないと駄目だと思うんで」 「……そ、う」 「そんなわけで、微妙な時期なので、外部に漏らさないでくださいね」  ついでに相談とか乗ってくれると嬉しいんですけど、と続けて照れ臭く笑ったら、火を止めた湊がふらりと離れた。 「湊さん?」  あまりにも頼りない足取りにどきりとする。  体調がよくなかったのかと心配する弘人を振り返らず、彼は寝室に入っていった。 「どうしたんだろ……大丈夫かな」  その内出てくるだろうと放っておいたことを、後程どれだけ後悔するかなど今の弘人には知る由もない。  その夜、兄が寝室から出てくることはなかった。  そして翌朝。  リビングテーブルに、しばらく出張に行って来るとたった一言だけの書き置きを残して、湊は部屋に帰って来なくなった。

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