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第63話
会社の近くに取ったビジネスホテルの一室で、湊はぼんやりと紫煙を燻らせていた。
自己防衛本能か、やはり極限になると自分は弘人の前から消えようとするらしい。
本当は、家を出た足で日本からも出るつもりだった。今度こそ弘人の傍で生きることを完全に諦めて、断ち切るつもりだった。
だが結局、本稼動を始めたばかりのプロジェクトの行く末が気になって、成田に向かいかけていた車を反転させこのホテルに一先ず落ち着くことにしたのだ。
会社にも、誰にももう迷惑はかけられない。一度任された以上、何があっても全うすると自分と会社に誓ったのだから、こんなことでそれを破るわけにはいかない。
この後の仕事は湊でなくても可能だろう。突然空いた穴に多少梃子摺りはしても、優秀な人材が揃っている会社だ、そう難しいことではない。ただ、湊の矜持の問題なだけだ。
弘人を失って、二度と離さないと握った手を再び離して、そして自分の社会人としての矜持まで手放してしまったら、もう湊には何一つ残らない。そこからまた新しい人生を一から始めようという気概も、たぶんもう生まれないだろう。
だからここに留まった。この五年をかけたプロジェクトが、一人歩きを始めるまでという期限をつけて。
思えば、今このタイミングで南方と弘人の仲が近づいたのは、弘人に一般的な幸福とやらを返せるチャンスなのかもしれない。
女性と結婚して自分で作った家族を持てば、この先一生弘人が独りになることはないのだ。湊と一緒にいてもこれ以上家族が増えないのとは違って。
弘人は不遇な少年時代だったと思う。湊はまだ弘人よりは両親との思い出も多いが、彼にはそれすらもあまりない。弘人が湊に固執していたのは、そのせいもあると分かっている。
彼には強く繋がれる家族が必要なのだ。自分との記憶を失った弘人がそれを望むのなら、望む相手が現れたのなら、もう湊の役目は終わったということだろう。
後は、恋人として過ごした記憶を持った湊一人が、その記憶を抱えたまま黙って身を引けば全てが丸く収まる。弘人にとっては始めからなかった兄との異常な関係だ。いつか思い出したところで、その頃にはすでに彼の周りには彼の家族がいる。弘人の性格上それを振り切ることはできないだろうから、そうしたら後はもう本当に忘れるだけですむ。
こんな幕切れを望んでいたわけではもちろんないが、心を切り刻む痛みを何とか昇華するためには、無理矢理でもこうして一方的に弘人の幸せを決め付けて思い込む他なかった。弘人と別れたからといって簡単に生きることを止めるわけにもいかないのだから。
これから先も自分が自分として生きていくために必要な儀式のようなものだと、湊は激しい拒絶を訴える心の声を、じっと押し殺していた。
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