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第64話

 物憂げな部長は目に毒だ。小野瀬はここ数日で心底そう思った。  もはや公害と言われても仕方がない程、彼が垂れ流す諸々は部内どころか社内にまで影響を与え始めている。  つい先程も一つ下の後輩から泣きながらどうにかしてくれと訴えられたばかりだが、正直小野瀬にはどうにかできる気がしない。それでも彼の片腕を自負している以上、どうにかせねばなるまい。彼の身の安全のためにも。  大体にしてここ最近の湊はますます様子がおかしかった。元々自分の状態を他人に悟らせるような人ではないため、始めそれに気付いていたのは極一部だったが、その極一部が厄介で、彼の動向を気にした彼らから小野瀬は内々に様子を窺うよう命じられていたのだ。ここまで被害が拡大しているとだいぶ無意味だったが。  それに近々大口の来客もある。万全の態勢で迎えるためにも、湊にはそろそろいつもの調子を取り戻してもらわねばならない。  彼が調子を崩せば色々なところに支障が出るのだ。彼の代わりは探せばいるかもしれないが、彼以外だと納得しない人々が大勢いるのだから、これを機にその辺をしっかり理解してもらおう。  そう意気込みながら湊の姿を探して喫煙スペースまで訪れた小野瀬は、そこに目当ての人を見つけて思わず立ち止まった。  チャコールグレーのスタンダードなスーツは彼にしては珍しい。今はジャケットを脱いで椅子に引っ掛け、中身はその椅子の傍で壁に寄りかかって立っている。ワイシャツとネクタイだけの格好で煙草を吹かしている仕草に何とも言えない色気があって、また妙に嵌まって格好良かった。  年齢は小野瀬とそう変わらないはずなのに、時に湊は何十歳も年上に見える時がある。だからつい、自分も含めて様々な人間が彼を頼りにし過ぎてしまうが、よくよく考えれば彼はまだ三十にも満たない青年なのだ。  どこも見ていない瞳でゆっくりと煙を立ち昇らせるだけの横顔が暗く沈んでいて、初めて歳相応の顔を見られた気がした。こんなどう見ても良くないであろう状況なのに、それが少し嬉しい。 「部長」  小野瀬の声に反応してこちらを向いた彼は少し頬がこけている。きちんと食事は摂っているのだろうか。 「どうした。何かあったか」  ちらりと胸ポケットの社内携帯を確認した湊の隣に立って、小野瀬も煙草を取り出した。  彼が上司になる前から彼に憧れて、密かに同じ銘柄に替えていた煙草は、今では小野瀬にもすっかり馴染んでいる。 「いえ。俺も休憩しようと思いまして」 「そうか」  沈黙が流れた。  二人分の煙を吸い込んでいく換気扇が少し煩い。そろそろ業者が掃除に来る頃だから、それももう少しの辛抱だが。  そんな風にこの人の憂いも綺麗に掃除してしまえたら、彼の中での小野瀬はどんな地位を得られるのだろう。  彼が悩み事を社内の人間に、それも部下に話すとは思えないが、それでも義務以上の気持ちで湊が心配だった。二ヶ月前よりも一ヶ月前、一ヶ月前よりも二週間前。そして二週間前よりも、今日の彼は着実に痩せていっている。 「ご存知ですか、海津部長」 「ん?」 「色んな人が、貴方の力になりたがってるんですよ」 「……え?」 「俺はその筆頭です」 「……小野瀬……」  婉曲に言ってもこの人は駄目なのだ。緩やかに押したらその力を上手く使って避けられてしまう。良くも悪くも柳のような人だから。  あえて投げた直球を避け損ねた湊が、煙草を銜えたまま言葉に詰まった。自分の気持ちが届いた感触を得て、ふっと煙を吐き出す。  数秒の黙考後、湊は諦めたように溜息を吐いて煙草を消した。 「今の俺は、どう見えてる?」 「はっきり申し上げて、非常に危なっかしいです。心身共に不健康なのが丸分かりで、付け込み易そうですね」 「……交渉事に出られないじゃないか」 「そういう意味だけじゃありませんがね。出ない方が無難でしょうね、色々と」 「戦力外か。情けないものだな」  小さく自嘲する姿に、本当に今彼は参っているのだなと小野瀬は改めて感じた。  そして思う。今なら、少しだけでも話を聞けるかもしれない。  自販機から飲み物を購入し、湊に差し出す。黙って受け取った彼の隣に戻って、自分用の珈琲に口をつけて待った。  再び流れた沈黙を破ったのは、意外な一言だった。 「小野瀬は、家族は大事にする方か?」 「え、家族ですか? まあ、それなりに……普通に心配とかもしますから、大事にしてると思います」 「いいことだね。……それじゃあ小野瀬が事故だかに遭って、その家族のことを忘れてしまったらどうするかな。大事だと思う気持ちがない状況で、それでも家族が小野瀬の傍に居たとしたら、どうすると思う?」  彼の問いは謎かけのようでありながら独白のようで。  慎重に答えを考えながら、小野瀬は納得していた。  ――――少し前から度々掛かってきていた電話の内容を、不思議に思っていたのだ。 「もしかして、弟さんの話、ですか?」 「……ああ」 「なるほど……だからあの時からずっと様子がおかしかったんですね」  二ヶ月前の、常務室から戻ってきた湊が血相を変えて早退していったあの日。  あの日から少しずつ物思いに沈む姿を見かけることが増えていった理由が、やっと分かった。 「俺だったらたぶん、もう一回小野瀬家に生まれ直した気持ちでやり直すと思います。それを家族が気長に受け入れてくれるなら、ですけど」  彼が求める答えを考えてみたけれど、小野瀬には小野瀬の答えしか返せない。  それを聞いて、湊は小さく唇を噛んだ。 「じゃあ、家族が受け入れてくれなかったら、諦めるのか」 「そうですね……」  おかしな質問だと思った。  小野瀬が知っている海津湊という人は、そんな状態にある家族を受け入れられない人ではない。むしろ全てを忘れた本人が自棄になって投げたものをそっと拾っておいて、また前向きになれた頃に黙って差し出す、そういう人だ。 「先に家族に諦められたら、自分だけもがいても疲れるだけですから。いい大人だし、独りでも生きていけると判断したら俺も諦めますねきっと」 「そう、か」 「でも」 「……うん?」 「だからって、平気なわけないですよね、家族に諦められるのって」 「……!」  疲れの滲んだ瞳が大きく見開かれた。  揺れた黒瞳が日食のようで、隠れた光に届いて欲しくてじっと見つめる。 「部長、諦めちゃうんですか?」 「…………」 「らしくないです。弟さん、泣いちゃうんじゃないですか?」 「小野瀬……」 「貴方が諦めたりしたら、誰が弟さんの先に立って、手を引くんです」  その役目はずっと、それこそ彼の弟が生まれた時からずっと、彼のものだったろうに。  容易にその光景が想像できて思わず笑った小野瀬を呆然と見ていた湊も、つられたようにくしゃりと笑った。  諦めと放棄は似ているようで全くの別物だ。  どうやらその事に気付いたらしい彼の笑顔は、弟よりも先に泣き出しそうだった。 「うちの弟は、もう大きいよ」 「ええ、随分立派な弟さんで、羨ましいです」 「あげないよ」 「確実に持て余すので要りません」 「要らないとか、酷いな……」  くすくす笑いながら、酷いのは自分の方かと呟いた声があまりに痛そうで、小野瀬は聞かなかったフリをした。

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