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第65話

「――そうですか。はい、いえ大丈夫です。――はい、それじゃ」  平坂との通話を終えた携帯を握ったまま、弘人は主の居ない部屋で怒りを堪えて立ち尽くした。  兄が出て行ってから一週間が過ぎようとしている今頃になって、ようやく異常に気付いた。書き置きを見つけた時、首を傾げて直接言ってくれれば良かったのにと思っただけだった自分が鈍すぎて嫌になる。  けれどそれ以上に、再び自分に嘘を吐いて逃げた兄に心底腹が立っていた。 「…………」  出張にかかる日数も帰宅予定の日も何も書かれていない書き置きをぐしゃりと握り潰して考える。平坂経由で齎された情報によれば、兄は出張には行かず通常通り会社に出勤しているという。どこで寝泊りしているのか、どうしてわざわざ嘘を吐いて家出してまで弘人から逃げる必要があったのか、今度こそ様子を見るなど悠長なことを言わず根本的な部分から問い質さなければ気が済まない。  裏切られた気分だった。ぎこちなさがだいぶ薄れて、少しずつ互いの存在に慣れて、記憶があった頃はきっとこんな風だったのだろうと思える部分がちらちら見えてきていたのに。  今回の湊の行動は、それらの変化を喜んでいた弘人を真っ向から否定するものだった。  ここまで誰かに対して怒りとも哀しみともつかない強い感情を懐いたのは初めてだ。彼と出会ってからこちら、妙にそんな事ばかり体験している気がする。血の繋がりがあるからか、彼に対してだけは感情の振り幅が自分でも信じられないぐらい大きくなる。  怒りに任せて携帯を放り出し、立ち入らないよう言い含められていた兄の寝室に向かう。以前の自分はどうだか知らないが、こんな形で出て行った人の言う事にいつまでも従っていられる程今の自分は従順ではない。  踏み込んだ兄の寝室は、出て行く寸前の彼の心情を表すようにそこかしこが乱れていた。いつもキッチンやリビングはある程度綺麗に保っていた彼らしくない様子に、血が上っていた頭が少しだけ冷える。  冷静さが戻ってきた頭で改めて、雲隠れした彼が残した手掛かりはないかと室内を見渡した弘人の眼が、ふと奥のベッドに留まった。特に特別なものではない、普通のベッドの何が気になったのか近くに寄ってみて、理由に気付く。  一人暮らしだったはずなのに、兄のベッドには枕が二つ並んでいた。恋人が居る様子は無かったし、弘人に宛がわれたゲストルームも誰かが使っていた形跡は無かった。なのにこんな意味深な光景があるのはなぜだろうか。  新緑と濃紺の枕が仲良く並んでいる、そのどこかで見たことがある気がする色合いに、頭のどこかでパチンと一つ、シャボン玉が割れるような微かな音がした。  ゆるりと上げた眼が、先程までの怒気を引っ込めて再び室内を彷徨う。ベッドとは反対側の隅っこに書き物机を見つけ、吸い寄せられるように歩み寄った。  兄のノートパソコンが机の端に寄せられているのは、重くなる荷物を嫌って置いていったせいだろう。記録メディアが一つも見当たらない辺り中身は空に違いなく、仕事で使うデータだけ引っこ抜いて急いで出て行った姿が浮かんだ。  パソコンを開くために伸ばした指先が、硬い何かにぶつかる。見れば、白い裏側に輪ゴムを張った、祭りでよく見かける類いのおもちゃの面が伏せられていた。  不思議に思ってそれを手に取る。弘人と正面から見つめ合ったのは、楽しげな笑顔の狸だった。どうしてこんな物があるのだろう、そう困惑したが、自分の部屋でもこれと似たような面の狐バージョンを発見していた事を思い出し、更に困惑する。兄と二人で祭りにでも行ったのだろうか。そして面を二人して着けたのだろうか。自分はもちろん、兄にもそんな趣味があるようには思えないのだが。  狸を見下ろしたまま目を細めた弘人の頭でまた一つ、シャボン玉が割れた。  音に促されて頭の底で眠っていた何かが身動ぐ。その動きに合わせて浮遊感が生まれてくる感覚は、芝居を始める時のものと良く似ていた。すんなり別の誰かと重なって、意識が馴染んでいく独特の心地に包まれる。  けれど何かが足りない。何が足りないのか分からないが、ただ補わなければいけないという義務感に駆られ、勝手に机の引き出しを開けた。  浅い一段目と二段目には気を惹かれる物は何も無かったが、底の深い三段目に、ガラスケースに入った朱色の何かが見えてケースごと引き上げる。少し萎んだそれは、和紙で折られた紙風船だった。  また不思議な物が出て来たとまじまじ眺めていたら、脳裏にぱっと少年の泣き顔が過ぎって消えた。今よりもずっと幼い顔だが、兄だ。躊躇いなく断じた直後、パチパチ、と連続して音が弾けていく。  胸がざわつき始めた。悪い予感にも似た胸騒ぎと共に息まで苦しくなってきて、ケースを置いて深呼吸を繰り返す。  ――――後少し、もう少しだ。  何がもう少しなのか理解しないまま、逸る気持ちを無理矢理落ち着かせてパソコンを開いた。認証コードを迷い無く入力し、それが自分の生年だった事に解除された後に気付いて戸惑う。だがその戸惑いも、デスクトップに貼り付けられた画像を見て吹っ飛んだ。  片隅からこちらを見ているのは、あれはたぶん中学に入学した時の自分だ。それはまだ解る。  だが。  その隣に並ぶよう加工された写真に写っている二人は、今現在の弘人と湊だった。自分で撮ったらしく、弘人の片腕がこちら側に伸びている。そしてもう片腕は、隣に寄り添う湊の腰に回っていた。 「…………」  仲が良いにも程がある二人の距離。面映そうにはにかむ湊の、信頼しきった眼差し。そして何よりも写真の中の自分の、兄を一心に見つめている眼が二人の関係を雄弁に物語っていた。  こんな眼を、ただの兄弟に向けるわけがない。  ――――やはり、そうなのか。  極自然にその言葉が落ちた。  薄々はそうじゃないかと思いつつも、はっきりと形になる前にまさかと否定して消してきたある可能性が、遂に目の前に差し出される。  自室で見つけた、覚えの無い品々。なぜかきっちり揃っていた数年分の記憶。なのにその間に溜め込んだと思しき書類に身に覚えが無かった不思議と、ずっと違和感が付き纏っていた湊の言動。触れ合いそうになる度に必要以上に距離を取っていた彼の、怯えていた瞳の理由も、やっと解った。  全てがその可能性一つで、綺麗に繋がる。 「……確かめないと」  まだ記憶が戻ったわけではない。  だが思い付いた可能性が事実ならば、恐らくそれを知っているのは湊だけで。  そんな秘密を独りで抱えたまま消えた彼が何を考えてそうしたのか、今何を思っているのか、これからどうするつもりなのか。今すぐにでも聞き出さなければならない。  じわじわと湧き始めてきた強烈な焦りに突き動かされるまま、弘人はマウスに手を乗せた。

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