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第66話

 湊を名指しで呼びつけた来客は、現れた彼を発見するなり大仰な身振りで周囲からの視線を集めた。  懐かしい気さえするプラチナブロンドと青灰色の瞳の男に会社のエントランスホールでハグされ、湊は苦笑気味に抱き返した。日本式の奥ゆかしい挨拶などてんで無視の派手なキスまでかまされた時にはどよめきが起こったが、今年の三月まで海外支部を飛び回っていた湊はあまり気にしない。精々ビジネスの場としてはフランク過ぎるそれに顔を顰めたくらいだ。  それでも機嫌の良い顔を崩さないドイツからの来客、クラウス・ツォレルンは約四ヶ月ぶりだと親しげに笑った。 「元気にしていたかい、ミナト。いや、あまり元気そうには見えないね。何よりだ」 「私の聞き間違いでしょうか。なかなか際どい冗談ですね」 「いやいや本心さ。君が弱っている時が僕に与えられたチャンスの時だからね」 「ヘル、ここは私のホームです」 「おっと失礼。うっかりしていた、許しておくれ」  肩を竦めてにこやかに詫びる姿は他の者がやれば軽薄極まりないが、彼ならばそんな仕草さえも様になる。  相変わらず憎めない人だ。  そう苦笑する湊と嬉しそうに彼を見るクラウスの両名を見守っていた小野瀬は、呆気に取られた。  早口のドイツ語は正直聞き取れないが、自分の上司と海外からの賓客が親密らしいことは分かる。道理でホスト役でもない彼をわざわざ指名して出迎えさせたわけだ。  上司の付き添いで着いてきた小野瀬もクラウスと挨拶を交わす。それぞれが互いの面識を得たタイミングで、待機していた営業部の社員が後を引き継いだ。  今回のクラウスの来日理由は、瀬逗が今最も力を注いでいる例の大規模プロジェクトに関係する。ヨーロッパ市場を把握し、時に動かすクラウスの会社の存在感は、瀬逗と関わる各社の中でも一際異彩を放っていた。  そんな彼のホスト役に選ばれた社員は見るからに肩に力が入っている。対照的に連れられて去っていくクラウスは至って気楽にきょろきょろしていて、その対比が少し面白かった。  小さく笑って二人を見送った湊を見て、小野瀬も緊張の取れた顔で笑う。 「部長の明るい表情、久しぶりに見た気がします」  部下に指摘されて目を瞬いた。  そんなにいつもいつも辛気臭い顔をしていたのだろうか。 「いい気分転換になったよ」 「それは良かったです」  心からの安堵に随分心配を掛けているらしいと苦笑して、湊は礼を込めて小野瀬の背を叩いた。  プライベートを仕事に持ち込むなど言語道断、ましてや部下に心配をかけるなど、上司失格だ。それでもこうして温かく見守ってくれる貴重な場所を、そう遠くない未来に湊は自ら棄てようとしている。  そこまでして自分を守りたいのか。向けられるこんなに温かなものを踏み躙ってまで守ったものに価値が残るのか。残ったとしてそれは変わらずに価値と呼べるものであれるのか。  久しぶりに会ったクラウス然り、ずっと気に掛けてくれている人々然り。  見回せば湊の周囲には、望んだところで簡単には得られない優しい世界が出来上がっていた。  それら全てを顧みることなく逃げ出す程耐えられないものがあるのか、少し前向きになれてきている今、もう一度自分自身に問い直すべきなのかもしれなかった。  一日が終わってホテルに帰る、ひたすらそんな毎日を淡々と繰り返していたら自分が生きている実感が希薄になっていく。  長期プランで借りているホテルの一室は扉を開く度によそよそしい顔を見せる。  私物はスーツケースに詰め込める分だけ、いつでも部屋を出てどこへでも行けるように纏めた僅かな物だけで、味気ないことこの上ない。  こんな日々の中では弘人の事を思い悩むくらいしかすることがなく、それももう考えすぎて飽きてきている。  クラウスの登場は、暇を持て余しつつあったそんな湊にとって非常に都合が良かった。  元々気が合う者同士だ、どちらからともなく誘い合って飲みに繰り出す日が増え、つまらなかった日々を彩る華になってくれている。  この日もホテルに戻った矢先にクラウスから誘いの電話が入って、二つ返事で肯いた。  今夜は彼の希望で日本の一般的な居酒屋に案内する事になったため、ラフな服装に着替えて出かける準備を済ませておく。時間に煩い国民性を遺憾なく発揮するクラウスは、そろそろ待ち合わせ場所に向かっている頃だろう。  やや急ぎ気味に外出用のコートをクローゼットから取り出したところで、入り口の飾り棚に置きっ放しだった携帯が鳴った。  コートを羽織りながら足早にそちらに向かう。確認すると、部下の小野瀬の名が表示されていた。 「はい。どうした?」 『お疲れ様です、部長。今少しよろしいですか?』 「お疲れ。構わないよ」 『ありがとうございます。実はですね、さっき弟さんのマネージャーさんの平坂さんから電話があって……何かさんばっかりですね』  あははと能天気な笑い声に、もしや弘人に何かあったのかと身構えた体から力が抜けた。  よくよく考えれば弟に何かがあれば、わざわざ小野瀬を経由せずとも直接湊に掛かってくるだろう。  弘人に関わる事柄だと一瞬にして動きが鈍くなる脳に苦笑して、続きを促す。 『ちょっと様子が気になったもので、一応部長にお知らせしておこうと思いまして』 「何だ?」  腕時計を見たら、約束の時間が迫っていた。  財布を取りに戻って、落ち合う場所まで歩きながら話そうと入り口のドアに手を掛ける。 『何かですね、弟さんがうちの社に来てないかとか、部長のとこに行ってないかとか慌ててましたけど、部長、今弟さんと一緒にいらっしゃいますか?』  小野瀬の問いと、部屋のインターフォンが鳴るのと、ドアを開けたのが同時だった。  開いたドアの向こう、灯りが煌々と点された廊下に立っている男を目にして、湊の思考が音を立てて固まる。 『部長? どうかされました?』 「…………」  思い詰めた目付きでじっとこちらを見る男の顔が酷く強張っている。  動けない湊の腕をゆっくりと掴んできた手をぎこちなく見下ろして、一瞬でカラカラに乾いた口を開いた。 「……小野瀬、平坂さんに、伝えて。弘人は、俺と居るって」 『あ、そうなんですね、了解です。泣かせちゃダメですよ、部長!』  少しずつ力が籠められていく腕が痛くて、その腕を引っ張って室内へ押し入ってきた弘人の横顔が鋭過ぎて、小野瀬の軽口に応える言葉は出てこなかった。

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