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第2話
どっと沸いた笑い声に、湊は重い瞼を震わせた。
少しずつ意識が覚醒していく。ラグ越しの背中に感じる床の冷たさと、付けっ放しだったテレビの音量に低い呻きが漏れた。
リビングで持ち帰ってきた仕事をしている内に、体を伸ばしたくなって床に伸びた――そこまでは覚えている。そこから先は夢の中ということは、伸びをした一瞬後に寝落ちしてしまったわけか。とんだ特技だ。
固まった体をのろのろと動かし、気怠く座り直す。固めていない前髪がさらりと崩れ、形の良い額を覆う。煩わしげにそれを掻き上げる指は長く、清潔に整った爪先までが美しい男だった。
バランスの良い四肢を投げ出す湊は、今年で二十八になる。幼さの抜けた頬には大人の色香が宿り、年齢的にも社会的にも脂が乗り始める頃だ。
先日行われた人事異動で、今まで勤めていた海外支部から本社に戻る事になった彼には、部長の席が用意されていた。二十八という年齢から言えば破格の待遇だが、湊が勤める会社の事業内容を考えるとそこまでおかしな話ではない。同期の間では一番の出世頭ではあるが、今回の人事に関して不平を唱える者はいなかった。
海外にまで手広く事業を拡げる瀬逗商事は、五年前にファッションとカフェを融合させた小洒落たくつろぎ空間の提供で根強いファンを得た。
元々は日本独自の反物などを輸出し、海外の芸術品を日本に持ち込む貿易会社だったため、どうしても若年層の顧客を掴み辛い部分があった。その側面を打破するため当時入社一年目だった湊が新企画を担当することになり、試行錯誤の末ターゲット年代の感性に見事食い込む結果を叩き出したのだ。
その後二十五歳から三年間の海外支部勤務を経て、今年本社に戻ってきた彼は、本人が戸惑うくらいに好意的に受け入れられていた。
海外にいた間にも新ジャンルにチャレンジし続け、その功績を買われての本社凱旋だ。帰還命令を受けた際に、勢いと熱意だけで何とかなっていた時代は終わったのだと確信した。これからは開拓した新しい土台をさらに頑強なものへと固めていく、果てのない戦いに身を投じなければならない。
元来新しい物を次々に発掘し、形にしていくことが好きな性質の湊にとって、本社に腰を据えることになるこれからの方が、海外赴任を言い渡された時よりも不安は強かった。おまけに部長という、面倒な肩書きまでついてくるのならば尚更だ。
ブラックアウトしたノートパソコンにふっと眼を向け、エンターキーを叩く。認証コードを入力すると、画面に出てきた顔に眼を細めた。
デスクトップの一角で、少年がこちらを見ている。真っ白のシャツに黒い学生服を引っ掛けた、砕けた姿。ちょっと生意気そうな表情がとても可愛い。整った目鼻立ちは至る所のパーツが湊と共通していて、くっきりとした二重も彫りの深い端整な顔立ちも、よく似ていた。
中学に入学したばかりの頃の弟の画像を見つめ、テレビから流れてくる音声に耳を傾ける。女性リポーターの声が、興奮を隠し切れない様子で早口に叫んだ。
『あっ、ただいま、俳優の海津弘人さんが会場にいらっしゃいました! アイボリーのスプリングコートがとても似合っています……はぁ~…、素敵ですねえ!』
どこかのホールを背景にしたテレビの中で、黒髪の男が微笑んでいる。かつての少年の面影を色濃く残した、けれど可愛らしいという形容からは程遠い男前に育った、湊のただ一人の弟が。
うたた寝の最中に見た夢の理由を理解した。付けっ放しだったテレビから、何度かその名前が流れたのだろう。湊のたった一人の家族は立派に成人し、俳優という職業を得て、日々輝きながら生きていた。
直接顔を合わせられなくても、薄っぺらい液晶越しであろうとも、こうして元気なその姿を確認できるだけでも、日本に帰ってきて良かったと湊は思う。
――――たとえ、その大切な弟の前から姿を消して逃げ出した最低な兄だとしても、弟の元気な姿を見て安堵する気持ちだけは、本物だったから。
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