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第5話
テーブル上の携帯が無遠慮に奏でるアラームで、海津弘人は短い眠りから覚めた。
職業上少しの休息で事足りる体になったが、久しぶりに見た夢の感触を忘れたくなくて、身動ぎ一つせずにそっと目を閉じる。真っ暗な瞼の奥に、自分とよく似た作りの、けれど自分よりもずっと繊細で綺麗な白い顔が蘇って、ふ、と笑みが零れた。
三つ違いの兄は、いつだって弘人を大切に慈しんでくれた。両親が生きていた頃も、死んでからも、変わらずにずっと。
兄が泣いたところなんて、見たことがなかった。幼い時の兄弟喧嘩でも、両親がいなくなった日でも、兄は涙を見せなかったから。
頑固なまでに気丈であり続けた兄が、そうあるしかなかったのだと悟ったのは、あの真白の病室で、初めて彼がぐしゃぐしゃに顔を歪めて泣いた時だ。堪えきれない嗚咽で呼吸すらも止まるのではないかと心配になるくらいの号泣ぶりだった。
あんなに苦しくて辛くて美しい光景は、後にも先にもきっと無い。
自分も幼かったが、兄もまだ幼かったあの時代。それに気が付くのが遅すぎて、自分の幼さや弱さを当然に優先させて兄を追い詰めた。思い返したら当時の自分を殴り倒してやりたくなるが、仕方がない。自分はどうあっても兄を追い詰めずにはいられない性質のようだから。
分厚かった虚勢が崩れた兄は、その後無理なく伸びやかに育って、そうしてとても強い人になっていた。様々な状況の中で活躍していく兄に憧れて、追いつきたくて、置き去りにされたくなくて、弘人も様々なことに真剣に挑戦していったものだ。歯を食いしばって努力する自分を、兄も誇らしげに見つめてくれていたから。
そんな彼を見る視線に邪まな力が入るようになったのは、何がきっかけだったのか正直覚えていない。日常の些細な接触が降り積もってそうなったのか、それとも気づかない内に何か劇的なことを体験していたのか。ただ確実に言えることは、あの病室でのあのシーンが、それまでの弘人の全てを変える決定的瞬間だったということだけだ。
そしてまた、弘人は再び兄を追い詰めた。就職が決まった兄が、二人で暮らしていた家を出ると宣言したその日。積もり積もった色々なものが、兄のその一言であっさりと決壊した、あの日。
若かった。今も若いがさらに若かった。というか青かった。生臭いまでに。
額に腕を乗せて、弘人は深々と溜息を吐いた。告げる予定になかった気持ちをうっかり告げてしまった後の、あの兄の反応。唯一の救いは嫌悪や侮蔑の色がなかったことか。けれど瞠った瞳に浮かんだ怯えの気配に自分まで怯えてしまい、まんまと逃げられてしまったのだから、どうしようもない。
おまけにどうせ逃げられるのなら、欲望のままに突っ走っておけば良かったと後悔する自分もいて、実は未だにそう思っていたりするものだから、自分自身の成長のなさに余計にがっくりくる。もう子どもではないし、社会に出た人間として人生経験も恋愛経験も積んで、多少は落ち着いたはずなのに。
それもこれも、抜けない棘のようにいつまでも自分を苛む、家族愛を軽く超えてしまった兄への気持ちのせいだと、弘人は八つ当たりの視線をサイドテーブルへ向けた。そこには特徴のない大判の茶封筒が一つ、黙って鎮座している。昨日届いて昨夜の内に確認した中身は、興信所に依頼していた調査報告書――海津湊に関する、書類だ。
兄が弘人の前から姿を消した時、弘人はまだ大学生ではあったが、学業の傍らでモデル業もこなす勤労学生だった。生活していくには十分な収入があったからこそ、兄も安心して逃亡できたのだろう。
だからこそ、弘人もいなくなった兄の足取りを常に把握しておくために、定期的に興信所を使えた。家族でなければただのストーカーだが、幸か不幸か家族だったので――それも唯一の――弘人はその特権を全力で使うことに決めたのだ。
そうやって得ていった兄の情報は、時には女の影もあったりして決して嬉しいものばかりではなかったけれど、離れている間の弘人の心の支えになっていた。兄が生きていて、元気に働いていて、手を伸ばせばまだ届く距離にいる、それだけで。
直接顔を見てしまったらまた簡単に理性が弾け飛ぶ自信があるから、住所は知っていてもまだ会うことはできない。けれど、もう少しこの気持ちを上手く抑えられるようになったら。あの強くて優しい兄を怯えさせずにすむようになれたら、その時は。
もう大丈夫だから、もう逃げなくていいから、また昔のように仲の良い兄弟でいようと伝えるために、会いに行こう。
――――そう、思っていた。
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