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第6話

――はい?」  電話越しのマネージャーの声が、木霊するようだった。  告げられた新たな仕事の内容に、弘人は落としたペンを拾おうとした格好のまま固まる。  無事クランクアップしたドラマの撮影終了日、世話になった共演者やスタッフたちに挨拶に出かけようとした矢先でのことだった。 『あれ、聞いてなかった? 珍しいね、弘人がぼけっとしてるなんて』  兄と同い年のマネージャーは平坂という。ぱっと見小洒落たサラリーマンのような風体の彼は、担当マネージャーというよりは友人のような気安さで接してくる。  人当たりの良い爽やかな好青年だが、そこそこ人気の学生モデル程度だった弘人を俳優としてスターダムにのし上げた、やり手の男だ。 「いえ……すみません、ええと……瀬逗商事、の……?」  固まったのは、その社名が出たからだった。よりによって、兄が勤める会社の。 『なんだ、ちゃんと聞いてるじゃないか。そうだよ、瀬逗商事からのCM依頼が入ったんだ。大手だし、取り扱ってる商品も店舗もおかしなものはないし、むしろこれからの弘人にとってプラスになる会社だから、ぜひ受けてほしいんだけど。どう?』 「…………」  平坂は決して勝手に仕事を決定しない。駆け出しの新人だった頃から、必ず弘人の意向も聞いて、より良い形で仕事に集中できるように尽力してくれている。  だからこそ弘人も平坂を信用し、彼が持ち込んでくる仕事は極力受け入れてきた。今回の仕事だって、客観的に見れば断る要素などどこにもない、とても有難い話だ。  だが。 『弘人?』 「……少し、考えさせてくれませんか」  まだ、急に兄との距離が縮まるのは、本音で言えば怖かった。  しかし弘人のそんな感情になど、当然だが平坂は頓着しない。渋る返答に本気の驚きが返ってきた。 『え、何で? 無茶苦茶良い話だよこれ。瀬逗商事のほら、何年か前に大ヒットしたカフェがあっただろ? 飲食関係に瀬逗が初めてチャレンジしたアレ。アレ関連のCMで、しかも今回は新しいデザイナーのイメージモデルにってことで弘人に依頼が来たわけだから、ここ取らなきゃこの世界舐めてんのってレベルよ?』 「……ですよね……」  ぐうの音も出ない。  しかも、瀬逗商事のカフェ。今は担当者が変わっているとは言え、それは元々兄の企画ではないか。  どういう巡り合わせなのだろうか。運命とやらの悪戯は往々にしてシャレにならない。 『受けるよね?』 「喜んで……」  笑み声のプレッシャーに屈し、弘人は結局諾々と頷いた。  元は兄の企画とは言え、今では部長クラスに昇進した彼が、CM製作の現場にまで易々と現れることもないだろう。打ち合わせ等で会社に赴くことがあるならば、その際に姿を見られないように気をつけていればいい。兄は自分の所在を避け続けている弟が知っているとは夢にも思っていないだろうから、うっかり鉢合わせでもしない限り、兄の方から何らかのアクションなど起こさないはずだ。  自分の予想に勝手に傷つく胸の痛みに蓋をして、弘人は通話を終えた携帯を閉じた。

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