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第68話

 自分は、ここまでされる程の事を、したのだろうか。  ふらり、ふらりと重心の定まらない歩みで、歩道の端を行く。  どこへ行きようもない。  ただ、あのままあのホテルに留まってはいられなかった。  意識を飛ばしてしまったらしい湊が気が付いたのは、事が終わってしばらくしてからだった。  拘束されていた腕はいつの間にか解かれ、体は綺麗に拭き清められていて不快感は無い。シーツを剥いだマットに直に寝かされた湊の隣では、それを為したのだろう弘人が寝息を立てていた。  その事後処理の手馴れ具合と平和な顔は以前のままで、先程までの暴力を受け入れられない頭が一時混濁した。  こうして間近でよくよく見た弘人は、目の下に濃い隈を作っている。仕事のせいか湊の居場所を突き止めるためか理由は定かではないが、最近あまり寝ていなかったのだろう。  こんな距離で彼を見つめるのは本当に久しぶりで、ぼんやりとしたまま手を伸ばして、薄い皮にくっついた隈に触れた。そうして消えるわけもないのに、少し擦る。  けれど、そこまでだった。  それ以上はもう見ている事すらできなくて、静かに服を着て部屋を抜け出し、今、何の目的もなくふらふらと夜の街を歩いている。  財布は辛うじてコートのポケットに入っていたが、ホテルの鍵も携帯も、パスポート等の貴重品も全てあの部屋の中だ。弘人が寝ている間は取りに行けないから、どこかで時間を潰さなければならない。  けれど今は、誰にも会いたくなかった。  友人や同僚は勿論、コンビニの店員にすら会いたくない。誰の目にも留まりたくない。コートと服で隠しているとはいえ、ほんの少し前まで弘人を受け入れていた痕がある体なのだ。  心が交わらない性行為などセックスではない。ただの暴力だ。だが、本当にただの暴力なら、湊はここまで傷だらけにはならない。  弘人のあれは、あの激情は、自分を欲した故ではないと解かっているからこその、膿むような傷つき方だった。  ――――彼をあそこまで怒らせたのは、何が原因だったのだろう。  人通りを避けたくて、季節になると花見客で賑わう広い川原に下りた。今夜のように特に寒い夜は、散歩中の人も見当たらなくてほっとする。  でこぼこの道をとぼとぼ歩きながら、こうなるに至った理由を考えていた。  弘人がこうして現れたということは、湊の嘘はすぐにバレたのだろう。事が起こる直前の小野瀬からの電話で、経緯はある程度予想がつく。部下と弘人のマネージャーとの間で形成されていたらしいネットワークにまでは気が回らなかった。  自分の余裕の無さが表れたなと苦笑したところで、丁度橋の入り口にかかる。大きな河川に相応しい、立派な橋だ。だいぶ前の話にはなるが、弘人とも渡った事がある。  手摺りに手を添えて、なだらかに湾曲している橋を上っていく。痛む体にかかる負荷をできるだけ抑えるため時間をかけて上って、中央まで来た。  頬を掠っていく風が冷たくて、うっそり目を細める。歩いている間に下がった体温が、更に落ちた気がした。  けれど、その冷たさが心地よくもある。腰程の高さの手摺りに寄りかかって、水が流れる音に耳を澄ました。そして思い出す。確かこの河には巨大な亀が棲んでいて、たまたま発見した人がその亀をワニと勘違いして通報騒ぎになったことがあった。  あの亀はまだこの辺りに居るのだろうか。  欄干から見下ろす水面は、等間隔で設置された外灯を反射し部分的にきらきらしている。夜だと光が当たっていない場所との境界がくっきり分かれていて、昼に見る穏やかな姿とは全く違った。  今夜の弘人も、言ってみればこの河のようなものだった。  明と暗がはっきり分かれた彼の内面。恐らく、本当に恐らくだが、湊が彼から逃げなければ、きっと明の部分の彼とこの先も和やかに暮らしていけた。普通の兄弟として。  ――――普通の兄弟。  一度も望まなかったといえばそれこそ嘘になる。けれど、そう考えた湊の胸に走った痛みが、湊の頭よりも正直な心を教えた。こんな状況に陥ってもまだ、弘人を愛しく想っている気持ちを。  常軌を逸している病気だ。この病が巣食う限り、今の彼の傍に留まっても離れても、湊の苦渋は続いていくのだろう。 『……俺だって、弘人なんですよ……っ』  認められなくて、けれど確かに彼と触れ合う事に悦ぶ自分もいて、弘人の姿をしていればそれでいいのかと、恐れを覚えた自分ごとそう叫ぶ彼を否定した。  哀しみが滲むあんな声で、これだって自分なんだと訴えていた彼を。  酷い事をしてしまったのは、きっと本当は湊の方なのだ。抜けた穴を埋めようと彼が努力していたのを知っていて、それが叶い出して喜んでいたのを知っていて、なのにその全てを無視して振り切ったのだから。  頭で覚えていなくても、かつて置いて行かれた感覚はきっと潜在意識下で甦って、理由も分からない彼を為す術もなく苛んだはずだ。  何度そんな思いを味わわせたのか。その結果彼がぶち切れてこんな暴挙に及んだとしたら、湊の自業自得とも言えるのではないか。  だとしたらやはり、弘人の状態よりも自分の感情を優先させた湊の配慮不足だ。その上での今夜の失態なのだとしたら仕方ない。  ――――仕方ない、で済ませられるように立て直すのだ、早く。  そうでないと。  いつの間にか濡れている手摺りに縋って、ずるずる座り込む。よく見たら揺れる川面にいくつもいくつも、小さな飛沫が上がっていた。  鼻の奥がつんとする。それが降り出した雨のせいなのか、眼窩の奥にしつこく淀むもののせいなのかは判然としなかった。  始めは、自分たちの関係に気付いた弘人が、それがどんなものかと興味を持ったのかと思った。  けれどあの眼は違う。そんな好奇心など微塵も浮かんでいない、容赦のない眼だった。  嘘を吐いたからか。逃げたからか。どちらもか、それともこれまでの自分の態度全部か。彼を追い詰めてしまったのは、彼を見ようとしなかった湊の不誠実さだったのか。  嫌われたとは思っていない。弘人は嫌った相手には見向きもしなくなるタイプの人間で、それは記憶があろうがなかろうが変わらないだろうから、きっとそういうのとは違う。  水気を吸い込んで重くなったデニムが冷たい。座り込んでいる橋上にも雨は降り注いで、なけなしの体温を奪っていく。  硬い石の上でじっとしているだけでも痛む腰が、どうしたって先の行為を思い起こさせて、肌が粟立った。  嫌悪にではない。屈辱はあるけれど、それでもない。  あの夏以降、望みようの無い触れ合いだったのだ。久しぶりに、本当に久しぶりに、弘人に抱かれた。触れる事が出来た。それを、全身の肌が悦んでいる。  まるで愛されるだけの女になったようだった。一度受け身に回ると根本的な部分までが変わってしまうのだろうか。苦痛に塗れながらも、こうまで満たされるものなのだろうか。  自分の在り方がすでに根幹から弘人に侵されている。  こんな状況で、こんな形でそれを実感するなんてあんまりだ。痛み諸共思い知らされては、どんなに彼と距離を取ろうがこの先決して忘れる事なんてあり得ない。 「……あー……」  つまり、もう逃げないようにということかと、ふと思った。  何だか往生際の悪い自分への、きつい制裁だったような気がしてきた湊は、ごつんと手摺りに額をぶつけた。  ぐるぐるぐるぐる、本当に飽きもせずよく回るものだ、この頭は。  彼から逃げて、離れて、そして結局戻ってくる。物理的にも心理的にも、ぐるぐるぐるぐる。 「なんだ……」  そう、結局。戻るのだ、自分は。弘人へ。  馬鹿馬鹿しくなって笑う。考えても考えても、逃げても逃げても。最後は、弘人の許へ帰りつく。  始めから決められていた事の様に結局全てがあの男に帰結してしまうのなら、もう何をどうしたって、どうしようもないではないか。  乾いた笑いを収め、ふ、と短い息を吐いた。  諦めにも似た気分に包まれて肩を落としたその時、雨に打たれるままだった体に、すっと傘が差し出された。

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