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第69話
半覚醒の頭で隣にいるはずの人を抱き寄せたら枕が飛び込んできて、一気に目が覚めた。
がばりと体を起こして掛布を捲るが、やはりそこには誰もいない。明かりを点けっ放してある部屋の中も、バスルームにもトイレにも、兄の姿は無かった。
「……くそっ、またか!」
逃亡癖のある兄を慌てて追いかけようとして、部屋の隅に彼の荷物が放置されたままなのに気付く。荷物があるということは、弘人が寝ている隙に別の場所に雲隠れしたわけではなさそうだ。
一先ず落ち着いて、改めて状況を整理してみた。
ずっと続いていたもどかしい違和感が無くなっている。穴だらけだった頭に温かいものが戻ってきて、思い出したい記憶がすんなり思い出せるようになっていた。
どうやら足りなかった部分が、ようやく全て埋まったようだ。
彼を忘れるなんて、人生最大の失態である。
結局忘れてしまっている間も、弘人が求めたのは湊だった。理由はその時その時で違いはしたが。
だからと言ってそれが免罪符になるとは思えない。南方との事だってある。最悪な状況には至らなかったが、とんでもなく無神経な事を兄に対して言っていた。思い返してびっくりする程に。
挙句、手酷く抱いた。縛り付けて、自由を奪って、この体まで使って。
拒絶したいのにできない、けれど自分のものじゃないと泣いていた姿を思い出して、弘人は胸元を掴んだ。
記憶があってもなくても、自分という存在を彼に見て欲しくて、植え付けたくて堪らなかった。どうして解かってくれないのか、同じ人間なのにどうして受け入れてくれないのかと苛立って、随分酷い事をしてしまった。
そして何よりも酷いのはきっと、体だけ先に繋ごうとする弘人を否定しながらも、本来の弘人を恋しがってぐちゃぐちゃになっていた彼に、とてつもない安心感を得た自分だろう。
こんな自己中心的な酷い男だけれど、手放してはやれない。全てを思い出した今、手放す理由もない。
まずは湊を捜して連れ戻して、思い出したんだと告げて、これまでの事を詫びなければ。
都合良くすんなり許してくれるとは思わないけれど、許してくれるまで精一杯尽くして誠意を見せるのだ。
また、笑ってくれるように。
転がした湊の携帯を拾う。窓辺に落ちていたそれの電源を入れながら、雨が降り始めている外に気付いた。
出て行った兄が傘を持っているとは思い難い。秋雨は芯から冷やす雨なのだ、早く捜し出して迎えに行かなければ風邪を引いてしまう。
電源が入る短い曲の直後、手に持った携帯が無機質な着信音を奏でた。見るともう馴染んだ人の名前が表示されている。彼と平坂には、湊の状況を窺う上で大変世話になった。その礼も含めて用件を聞いておくつもりで、部屋を出掛かっていた足を止め電話に出る。
『あっ、やっと繋がった、部長すみません、また少しよろしいですか?』
「すみません、俺弟の弘人です。ご無沙汰してます小野瀬さん、平坂さん経由で色々とお願いしてしまってすみませんでした」
『えっ、あ、弟さんですか! いやあ、気にしないでください、ちょっとスパイっぽくて面白かったですし』
「ありがとうございます。今兄はいないんですけど、何か用事なんですよね? 良ければ伝えておきましょうか」
『あー……』
どちらにせよ捜しに出るのだから、今聞いておいても問題はない。
そう思っての申し出だったのだが、躊躇った小野瀬の反応に、そういえば会社の事なら気軽に伝言は頼めないよなと思い直した。
こういうところが一般常識からやや外れている感覚なのだろう。
「すみません、仕事関係でしたら漏らしちゃだめですよね。兄が戻ってきたら改めて掛け直すよう伝えておきます」
『あ、いやいや、そうじゃないんです。仕事じゃないっていうか……いや、一応これも仕事なのか……?』
ぶつぶつ呟く小野瀬の困惑はよく分からないが、そろそろ部屋を出たい。そんなに遠くまで行っていないとは思うが、追い詰めてしまった湊の行方が心配だった。
痛む体を引き摺って、濡れそぼりながら歩く姿が浮かぶ。自分がそうさせているのだろうと思えば、焦りと共に歪んだ喜悦まで湧いてくるのだから相当狂っている。
弘人が頭を振って危険思考を飛ばした頃、小野瀬も決心が着いたらしくやけに深刻そうに話し始めた。
『実はですね、今うちの会社に外国からのお客様をお迎えしているんですが……』
「はい?」
小野瀬から、そのお客様とやらと湊が親密な様子だった事や、最近よく飲みに出かけていたらしい事、今夜も約束があったらしい事等を聞かされた弘人の脳内には嫌な予感が駆け巡り出していた。
知らず知らず、眉がきつく寄っていく。
『で、そのお客様から私のとこに、約束の時間になっても部長が現れないって、彼はどうしたんだって電話がありまして……部長、電源入れてらっしゃらなかったから……』
「……」
その犯人は弘人だ。
あなた方ご兄弟はオフでは携帯もオフなんですかなんて嫌味を言われても何も言い返せない。
そうして続いた小野瀬の溜息混じりの呟きに、弘人は目を剥いた。
『どうも、その方がお付きの人たちと一緒に部長を捜しに行かれたようでして。部長の性格上無断でドタキャンなんてしないはずだから、何かあったに違いないって凄い剣幕で……なので何もないんでしたら、連絡して止めていただけるように部長に伝えてもらえませんか?』
大事なお客様なので、この雨の中捜し回って体調を崩されたりしたら困るんです、と続いた小野瀬の言葉はもう耳に入ってこなかった。
まさかの。
見知らぬ人間から先を越されるなんて、本当にまさかの事態だ。
「分かりました、伝えます。失礼します」
『え、あ、おねが――』
最後まで聞いている余裕もなく切った携帯と、自分の携帯と財布、それから部屋の鍵を持って、弘人は猛然とホテルを飛び出して行った。
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