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第70話
橋の上に座り込んでいた湊に傘を差したのは、捜してくれていたらしいクラウスだった。
濡れ鼠の湊を見下ろす顔は険しい。それが心配から出ている表情だと分かって、ゆっくりと立ち上がった。
「ミナト。何があったんだ」
「ヘル……」
彼にしては随分ラフな格好だ。だが、洒落たジャケットも色の浅いデニムも、今はたっぷり水を吸って見るも無残な色合いになっている。
どうしてだろう、と考えてはっとした。
そういえば今夜は、この人と約束をしていたのだった。
「すみません、時間に、行けなくて……相当お待たせしましたよね」
「そんな事はいいんだ。それよりも、――…それは何だ?」
「え……。ッ」
よろけた体を支えるために取られた腕。袖に隠れていた手首が晒されたのは一瞬だったが、目敏く気付いたクラウスの顔色が変わった。
思わず彼を振り払って後退する。手首を庇って手負いの獣のように欄干に背をつけた湊を見て、クラウスは吐き出しかけた言葉をぐっと呑み込んだ。
数瞬の間の後、もう一度ゆっくりと湊へ向けて傘を傾ける。
「ここは寒いだろう。来なさい、暖かい場所で休めばきっと落ち着く」
「いえ、ご迷惑をお掛けしますので、今日は……」
「ミナト。今夜の事を詫びてくれる気があるなら、僕を安心させて欲しいのだけどね」
「…………」
暗にここで別れたら心配で仕方ないと言われ、湊は沈黙した。
クラウスはスマートだ。
スマートに自分の要求を通す方法を知っている。
これが弘人なら、湊の駄々など意にも介さず強引に連れて行くだろう。湊がおかしな方向に考え込んで動けなくなる前に。
やはり、より我侭で勝手なのは自分のようだ。
思いがけないところで再認識して、苦く笑う。傘を差し出したままのクラウスが首を傾げた。
冷たい雨の中、自身も濡れながら心配してくれているこんなに優しい人をこれ以上突っぱねるのはあまりに申し訳なくて、湊は差し出された傘に黙って入った。
クラウスが宿泊しているホテルは、会社からそう遠くはなかった。
瀬逗の客として招いた以上、ある程度格式のあるホテルを手配したらしく、通された部屋はそこらのビジネスホテルとは一線を画している。
濡れた重い服を脱ぎ、熱い湯に浸かって温まるとほっとした。先に風呂を使わせてもらったのは申し訳なかったが、有り難くもある。自分で認識していた以上に冷えていたらしい体が、やっと強張りから解放されて息をつけた。
どこにも行きようがなかったのに、思わぬ人から拾われた。友人と呼ぶにはまだ足りないが、仕事だけの繋がりと呼ぶには味気ない、微妙な関係の人に。こうやって迷惑を掛けることがクラウスとの距離を縮めることになるのか、それとも開くことになるかは分からないが、せめて瀬逗に影響がないように細心の注意を払わなければならない。
風呂から出たら改めて今夜の約束のことから謝罪して、お暇しよう。その後どこへ行くかはまだ決めていないが、このままクラウスに世話になるよりは早々に辞去した方がいいに決まっている。
温かい湯に投げ出した手首に視線を落とす。赤紫から段々どす黒く変色してきたそこは目立った。柔らかい生地のネクタイでこうまで痕になるなんて、一体どんな縛り方をしたのか。
目的を達成するためには手段を選ばない男は、今頃まだ寝ているだろうか。二人の関係を暴いた今、目覚めたらどうするつもりなのだろうか。
以前は追えていた弘人の言動が、全く読めなくなっていた。
今まで読めていると思っていたのは、あくまでも弘人から向けられる想いに基づいた予測であっただけだということに気付いてじわりと胸が冷える。
その気持ちがなくなってしまったら、一気に家族としての繋がりすらなくなってしまうような気がする。そんなことはないはずだけど、それだけ弘人から向けられていた特別な感情は普通の兄弟として過ごしていた頃から密接に在り過ぎて、それが無くなってしまった時の想像がつかない。
温かい湯に浸かっているのに寒気がして膝を抱えた。体のあちこちに散った鬱血痕をこんなに虚しく感じことはない。
湊一人が逃げたところで逆効果になるのは今夜で身に沁みた。しかし、では逃げずに相対できるかといえば、今すぐには難しい。
こうやって延々と考え込むのは疲れる。けれど弘人に関してだけはいつも、より慎重にならざるを得ない。
何度も切り捨てようとしたのに出来ないで今に至っているのも、こんな状況になってもここまでぐずぐずしているのも、結局は記憶があってもなくてもたった一人である弘人を失いたくないという湊の未練が、あまりに強すぎるからなのだ。
風呂から出るとガラス張りのテーブルに酒と軽い料理が並んでいた。
ルームサービスで頼んだらしいそれらを前に自分を待っていたクラウスに、すぐに帰るとは告げられず勧められるままに向かいに座る。
替えの服はクラウスのものを借りたため、少し布が余って不恰好だ。袖が長くて多少動かしたくらいでは肌が見えないのは幸いだが。
けれど、クラウスは何も気付かなかったフリはしてくれなかった。
魚介のサラダをつつきながら、何気ない口調で問うてくる。
「恋人かい?」
一言だけの問いにグラスを傾ける手が止まった。誤魔化すべきか、それともここまで世話になっているのだから多少は話すべきか逡巡していると、とん、とクラウスが自分の手首を叩く。
やはりあの時見られていたのだ。だったら全てを何もないと誤魔化すことはできない。
「……はい」
「随分過激なプレイをしているんだね……楽しんでいるようには見えなかったが」
素晴らしくプライベートな話題だ。仕事相手でもあるクラウスとこんな会話をしなければならないなんてと、湊は羞恥と居た堪れなさに唇を噛んだ。
「……」
何も答えられない湊を頬杖を突いて眺めていたクラウスが、青灰色の目を眇める。
「……僕なら、こんな風に君を傷つけはしないよ」
「……っ」
気付いた時には遅かった。
いつの間に手を伸ばしていたのか、グラスを握ったままだった袖を捲り上げられている。
露わになった惨たらしい緊縛痕に触れられて、思わず払い除けそうになった動きを辛うじて押し止めた。
「ヘル」
「クラウスと」
「……」
「クラウスと、呼んでくれ。ミナト」
なぞる指先の優しさと、それに似つかわしくない真剣な眼差し。そしてファーストネームの呼称をねだるクラウスの望みが何か、解らないとは言えなかった。
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