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第9話

 案内されたのは、全室個室で客のプライバシーが守られている、品の良い和風の小料理屋だった。 「お連れ様はお先にいらっしゃってますよ」  和装の店員に告げられた一言に、緊張感がいや増す。期待と否定が渦巻いた頭は収拾がつかないながらも何とか冷静になろうと努めていた。 「失礼します。……あれ?」  先頭に立って襖を開けた小野瀬が、きょとんと中を見回す。彼について入った室内には、誰の姿もなかった。 「あれえ? トイレかな……あ、すみません、一先ずどうぞ」  掘り炬燵になっているテーブルに案内されてコートを脱ぐ。奥に設置されているハンガーにそれを掛けようとして、弘人の手が止まった。  そこにはすでに一人分のコートが掛けられていて、ここに確かに誰かが先に来ていたのだと窺わせる。しかも、男物だ。細身のシルエットに良く似合いそうなデザインの。  弘人の胸にまた一つ、期待が湧いた。ここに至るまで、小野瀬は誰が来ているのか決して口を割らなかったが、もうきっと間違いない。このコートには見覚えがあった。  興信所からの最新報告書で、兄が着ていたものと良く似ている。 「ちょっと探してきますから、お二人は寛いでいてください」 「いや、その必要はないよ、小野瀬」  襖の向こうから低い声が割って入った。弘人の呼吸が止まる。  記憶の中の声より落ち着いた印象だが、凛と通る声質はそのままだ。涼やかに耳を打つ印象的なそれが、一言二言小野瀬と言葉を交わしている。  靴を脱ぎ終えた人影が、す、と襖を開けた。 「お待たせして申し訳ない」  均整の取れた体をスーツで包んだ男が、驚く平坂に軽く会釈をして弘人を見た。真っ直ぐに。  深い黒色の瞳が細められる。懐かしそうに、どこか痛いように、そして。 「――久しぶりだな、弘人」 「兄さん……!」  兄の瞳に浮かんだ、紛れもない愛おしみの色に、弘人は泣きたい気分で大きく胸を喘がせた。  互いの自己紹介が済むと、後の食事は和やかに進んだ。  話し上手の小野瀬が次々と話題を提供し、ノリのいい平坂が場を盛り上げる。時折兄が合いの手を入れて、ついつい彼の方ばかり見てしまう弘人に話を振り、また会話は流れていく。  正直言って弘人は食事や会話どころではなかった。馬鹿のように向かいに座った彼から眼が離せない。  心臓が痛い。飲んでも飲んでも喉がカラカラに渇く。料理を摘むために視線を落とす事すら勿体なくて、箸も進まなかった。  一瞬でも兄から眼を離したらまた居なくなるような気がしてきて、先程から瞬きの回数も減っている。写真ではない生身の彼を目の前にしたら、ここまで行動に異常を来すようになるのかと、そんな自分が空恐ろしかった。  たぶん兄も、血走った弟の眼が怖かったのだろう。  しばらく雑談を続けた後にふと視線を彷徨わせた湊が、意気投合して盛り上がる平坂と小野瀬に軽く断って席を立ち、くいと弘人を部屋の外へ誘ってきた。  誘われるままに立ち上がった背が押しやられ、男性用の化粧室に連れ込まれる。 「弘人、お前、いい加減にしろよ」  壁際で詰め寄られて、密着した体からフレグランスが香った。それだけで思春期の子どものように体が熱くなる。憤る兄の目尻が、酒のせいか怒りのせいか仄赤く染まっているのも目の毒だった。  もう死ねるかもしれない。 「ごめん、無理、自制利かない」 「っ、おい!」  目の前の体を力一杯抱き締めた。焦った湊が腕を突っぱねてくるが、構わずに力を込め続ける。  一緒に暮らしていた少年時代にだって、こんな風に兄を抱き締めたことはなかった。彼に向かう想いを自覚してからは尚更不用意な接触を避けたし、できるだけ視界に入れないように努めていた日々もある。  子どもならではの一過性の気持ちなら良かった。一番身近な人に寄せる、ただの憧憬なら良かった。それだったら兄はあの家に自分を一人にはしなかっただろう。あんなに強かった人が、この六年ひたすら逃げ回るなんて事はしなかったはずだ。  けれど。  硬い体を抱く腕に、躊躇いがちに指が触れる。それがこんなに愛おしいものだと、知らないままで生きていくことに何の意味があるのか、もう弘人には分からない。  しかし、もういい。  自ら繋がりを断ち切った兄が、自分から弘人の方へ踏み出してきてくれた。  ならばもう、怖がる必要も迷う理由もない。 「ひろ……、俺は」 「黙って」 「ま……っ」  互いに緊張しているのだろう、乾いた唇が触れ合う。  乾いているけれど、温かい。表面だけを触れ合わせ、軽く擦って、戦慄く下唇を食む。  決して深くはないそんな稚拙な触れ合いが、この上もなく心地よかった。 「待て、待ってくれ……。俺はまだ、決められないんだ、ひろ」 「兄さん?」  腕の中で震えた体が寄りかかってくる。しっかりと受け止めて、俯いてしまった顔を覗き込んで驚いた。  ――――兄の、こんな表情を、初めて見た。  戸惑いと躊躇い、不安と後悔。言葉にできない感情を溜め込んで揺らめいている瞳。ひどく脆い、胸に迫る表情。  彼がそんな顔を無防備に晒す相手なんて限られている。自分の前に差し出されたそれが愛しくて、欲しくて、弘人はまた手を伸ばした。  上向かせた唇を啄ばんで、頑なな頬を撫でる。こめかみを梳いて、耳朶(じだ)に触れ、うなじに手を差し込んで深い口付けを交わす。  丹念に舐めあげてくる舌に根負けしたように熱い粘膜が絡まり、一気に体温が上がった。 「――は、ひろ……」 「兄さん、兄さん……!」 「ばか、落ち着け…っ、場所をおも、ん、ぅ」  落ち着けるわけがない。  入ってきた時とは反転し、湊を壁に押し付けてその存在に溺れる。求めて求めて求めて、逃げられてからも求め続けて、諦めと執着に振り回された年数は決して短くはなかった。  脚の間に膝を入れ、本能のままに貪った。これほどこの行為に酔った事も、こんなに気持ちがいいと思った事も、ない。  彼だからだ。はっきりと思う。  無意識の内に更なる行為を求めて、入れた膝で兄の股間を煽った時だった。濃厚な口付けで甘く滲んでいた湊の眦が、突然覇気を取り戻してかっと吊り上がった。 「調子、に、乗りすぎだ!」 「!? ちょ、いっだ、痛い!!」  あろうことか反応しかかっていた息子が鷲掴まれた。  捻り潰す勢いで力を込められて、弘人は堪らず腕を放す。 「ッ、ッ……え、なに、この雰囲気でそういう事しちゃうの兄さん……」 「何言ってんだこの痴漢が」 「痴漢!? うっそ合意でしょ!?」 「誰がこんなとこでGOサイン出すよ、数十分前に戻って確認してこい」 「いやいやいやいやいや」  しゃがみ込んだ弘人を見下ろして、湊はふんと腕を組んだ。偉そうだが、冷ややかな目元が赤い。 「暴走してんじゃないよ。大体俺はまだ決めかねてるって言ってるだろ。一人で突っ走んな、周りを見ろ、むしろ俺の様子をちゃんと見ろ」 「見てたさ、こんなとこに引きずり込まれるくらいガン見だったよ!」 「ああそうだな。明らかに不審者みたいだったなお前。今俳優なんだろ? せめて他人がいるとこでくらい冷静沈着を演じてみたらどうなんだよ」 「うっ……」  それを言われると弘人も弱い。確かに常軌を逸した眼で兄を見ていた自覚はあるから、とても弱い。  ばつが悪くて眼を逸らした弘人に、湊は深々と溜息を吐いた。しゃがみ込んだままの弘人を立たせ、ドアへ向かう。 「とにかく。……あの時から、逃げ回ってて悪かった。俺も、ちゃんと考えるから」  だからもう少しだけ、時間をくれ。  そう呟かれて、弘人はまた泣きたくなった。  きっともう、兄は逃げない。また居なくなることを恐れなくてすむのだ。 「じゃあ、連絡先教えて。口説かせて、兄さんを。一緒に居させて」 「…………」 「嫌?」  顔を覗き込むと逸らされた。けれど赤くなった頬は隠せていない。  こうして弘人に甘えられる事に、兄は弱い。 「……ずるいだろ、お前……」 「え?」  あえて俳優魂を発揮してきょとんとしてみせたら殴られた。ひどい。  痛がる弟の腕を引っ張って、湊は盛大に渋面を作ったまま化粧室の扉を開けた。  けれど先に歩き出した彼は、背を向けたまま、いいよと小さく呟いたのだった。

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