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第11話

 季節が夏の手前にまで及んだその日、瀬逗商事のCM撮影は最終日を迎えた。  帽子を目深に被った湊は、野次馬に紛れて撮影用店舗を遠巻きに眺める。あの箱の中で弘人が演技をしているのかと思うと、何だか不思議だ。  オープンテラスにバリスタに扮した男が姿を見せると、観客が一斉にさざめいた。あちこちから漏れる溜息と格好良いの言葉に、そうだろうと湊は兄馬鹿丸出しで眼を細める。気分は完全に父兄参観だ。  黒と白でストイックに統一されたギャルソンは、新進気鋭の若いデザイナーの手による新作だ。通常はベストを着けてタイを結ぶが、弘人は真っ白いシャツをすっきりと着こなし、腰から下に黒いエプロンを巻いていた。  身内の欲目を抜きにしても、相当似合っていて嫌になる。弟に見蕩れる日が来るなんて兄としてどうなのか。むしろ人としてどうなのだろう。  男相手にうっとりする性癖ではなかったはずなのに、何がどうこんがらがってしまったものか。  更に。 「……!」 「……」  こんなに大量の野次馬の中から迷う事なく兄の姿を見つけ、僅かに瞠った瞳を嬉しそうに、心底嬉しそうに緩めた弘人に胸が切なく騒ぐなど、もう色々と終わっている。自分も、弟も。  目が合って跳ね上がった心臓を意識しながら、監督らしき男と話している彼を見つめた。一ヶ月前、場所も弁えずにキスを仕掛けてきた唇が大きく口角を上げると、それだけで雰囲気ががらりと変わりカメラ映えする笑みが出来上がる。その表情は人に見られる事に慣れた、撮られる事に慣れた人のそれだ。  ――――遠い人の、それだ。  帽子を引き寄せて視線を落とし、視界から弘人の姿を消して自分の靴先をつまらなく見下ろした。  だから見に来るのを躊躇ったのだ、こんな風に自分に嫌気が差すと分かっていたから。  女々しい。驚くほど女々しい。おまけに心が狭い。  発見したくなかった自分が次々と顔を出す不快感は半端ない。兄弟がどうとか倫理がどうとか男同士がどうとか、くだらなくはないけれどどうしようもないそれに雁字搦めだった頃の方が余程マシだ。綺麗事を並べ立てている間は、こんな醜悪な自分は忘れていられた。  湊がそうやって逃げていた間、湊よりもはっきりとした気持ちを持ち続けていた弘人は、どうやって過ごしてきたのだろう。遅まきながらその忍耐力に敬服する。  物思いに耽っている間に撮影は店内に戻ったのか、気がついたらテラスには誰の姿もなくなっていた。見物人たちも興奮気味にそれぞれ散っていく。  動き出した雑踏に乗って帰ろうかと思ったが、何となく動きたくなかった湊は歩道の端に寄りぼんやりと立ち尽くした。  結局、弘人が演じているシーンは何も見られなかった。一体何をしに来たのかさっぱりだ。  でもギャルソン姿は良かった。それを生で見られただけでも、休日にわざわざ足を運んだ甲斐はあっただろう。  さてこの後はどうしようか、と意識を切り替えた時だった。横合いから伸びてきた手に腕を取られ、急に強い力で引っ張られた。反射的に振り解こうと身を捩ったが、外れない。ビルとビルの隙間の路地に引き摺り込まれ、すわ変質者かと相手を見上げて湊は焦った。 「お、まえ、何で」  思わず自分の口を押さえる。周りに他の人間がいるわけではないが、やはり気になった。  そんな兄の腕を離し、弘人は笑う。 「撮影はあれで終わり。ていうか兄さん、ちゃんと見てなかったろ。何のために来てくれたんだよ」 「……仕事に集中しろよ」 「してたよ。だから一発で終わらせて、急いで出てきたんじゃないか」  問われて答えられない自分と比べて、余裕綽々の弘人がむかつく。どや顔が子どもっぽくてちょっと可愛いなんて思ってしまった自分にもむかついて、湊は乱暴に弘人の頭を撫でてやった。 「よく頑張りましたねひろ君。皆さんにきちんとご挨拶はしてきましたか?」 「何それ何プレイ? 燃えるんだけど」  アホなことを言って笑う弟の頭をべしっと叩く。可愛いなんて思わなければ良かった。ちっとも可愛くない。  ――――嘘だ、やっぱり可愛い。  撫でられて乱れた髪を照れ臭そうに直す顔に脳が沸きそうだった。何なんだろうこの弟は。兄をどれだけ駄目人間にしたいのか。  今まで大人しく眠っていたベクトルが、急速に弘人へ向かっていく。そのスピードに恐怖した。このままだと際限が無くなりそうでぞっとする。 「ねえ兄さん、このままデートしようよ」 「は?」  湊が被っていた帽子をひょいと取り、被る。今度は弘人の目元を隠す役割を得た帽子の下で、弟は悪戯っ子のように歯を覗かせた。  その表情に、不覚にもときめく。 「何てあざとい弟なんだ」 「失礼だな。素直に見蕩れとけよ」 「ああもうほんと勘弁してお前」 「ハハッ、兄さんのうんざり顔久しぶりだなー」  何が嬉しいのか弘人のテンションはだだ上がりだ。鬱陶しい事この上ない。  けれど、釣られたように自分のテンションも上がっていくから、もう仕方がない。意思だけではどうしようもないことだって、世の中にはある。 「俺の貴重な休日をくれてやるんだから、しっかり楽しませろよ、弟くん」 「はいはい、どこへなりとお連れしますので、存分にお楽しみください、お兄様」  昔よりずっと男前になった顔で、蕩けるような眼差しを弘人は向けてくる。  その破壊力に引き攣った湊の頬をさらりと撫でて、弘人は先に立って歩き始めた。  随分頼もしくなった背を追いながら、湊は思う。  これが弘人の口説き方なら、何て恐ろしい奴なのだろうか、と。

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