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第13話

 デスクで急ぎの書類作成に勤しみながら、湊はふっと目尻を緩めた。  ざわめくフロアの中、あちこちで皆が忙しく立ち働いている。その合間を縫うように湊の許へは決裁を待つ書類が運ばれ、デスクの隅に積み上げられていく。  日常の中に身を置いて、いつもの業務をこなす隙間に浮かぶのは、先日の弟の姿ばかりだった。  仕事中に他所事に意識が引っ張られるなど、これまでの湊の常識ではあり得ないことだ。それも対人関係、しかもあろうことか実弟との恋愛、というなかなか濃いカテゴリの他所事に気を取られるなど、天と地が引っ繰り返っても我が身には起こらない事象だと思っていた。  数年ぶりの弟との外出はとても有意義だった。空白の六年間を上書きしていくように、知らなかった互いの趣味や価値観の違いを発見していった貴重な一日。知っていると思っていたことが実は知らなかったり、選ぶ品の好みが似ていたりと、今現在の弘人を知っていく作業は非常に湊を楽しませてくれた。 「部長、すみません、これ新CMのデータなんですけど――どうしました? 何かありましたか?」  慌しくやってきた小野瀬に驚いた顔をされて、湊はほくほくと緩んでいた頬を意識して引き締めた。  そういえば仕事中だった。回想に浸ったにやけ面など、部下に見せていい顔ではない。 「いや。何だ? チェックか?」 「あ、はい。第四会議室、今の時間なら空いてるそうです。お願いできますか?」 「わかった。行こうか」 「はい」  連れ立ってフロアを出てエレベーターへ向かう。幸い近くに止まっていたらしく、すぐにやってきた箱へ乗り込むと、小野瀬が物問いた気な視線をちらちらと投げてきた。  だが何も言わない。一瞬で終わるエレベーターの中で話し始める気はないのだろう。  目的の階で降りて第四会議室へ入ると、すでにパソコンと大型の液晶がセットされていた。相変わらず手回しの良い男だ。  少し離れた場所に腰掛けた上司の前で、手際よく視聴の準備を終えた小野瀬は、液晶の位置を調整しながら何気なく口を開いた。 「最近、部長のご機嫌がいいって部内でも噂になってますよ」  長い手足を組んで、湊は嘆息した。  何だそれは。 「失礼な話だな。そんなに年がら年中不機嫌だと思われてるのか俺は」 「いえ、不機嫌というか、部長あんまり表情変わらない人だから、単純に生き物の気配がしないって怖がられてたんですけど、最近はよく柔らかい表情をされてるから……ああ、この人の血も温かいんだなって皆気付いたというか」 「……お前ね。一応上司相手に直接そういうこと言う?」 「でも、このくらいじゃ部長怒らないでしょ。それに周囲の自分への見解というのは正しく認識してないと。どこで足元掬われるか分からないんですから」  欠片も遠慮のない小野瀬の言葉だが、その通りだ。本社に戻ってきてまだ日が浅く、十分に足元が固まっているとは言い切れない湊の立場を本気で支えようとしてくれている。  そんな小野瀬のような存在は非常に有難く、かつ得難いものだ。その点においても、自分はとても恵まれていると思う。 「……ありがとう」 「やめてください、礼なんて。たまに食事に連れてってくれるだけでいいんで」 「わかったよ。今度連れてく」 「やった! 肉が美味いとこがいいです。最近俺肉汁足りてなくて」 「肉……汁?」  肉汁というのは足りるほど摂取するものだったろうか。そもそも肉の汁が足りなくなるというのはどういうことだ。体に潤いが足りていないということだろうか。  若者の感性がよく分からないと、まだ二十代の上司は首を傾げた。そんな彼を横目に笑い、小野瀬はマウスに指を添える。 「今回のCMパターンは一つだけです。変わる季節を追って撮りましたので、店を中心にいくつかの物語が季節と共に進んでいきます。テーマは交差点。一秒毎に変わっていく人生と一人ひとりの時間と、流行と、いつだって変わらない味の一杯の珈琲。出会いと別れとすれ違いの連続を、カフェという場所を要に表現しました。どうぞご覧ください」  そうして流れ出した音楽と映像に、湊は引き摺り込まれた。概要は書面で知っていたはずなのに、それがあっという間に吹き飛ぶ。  狭い枠の中で、生が動き出した。海津弘人という人間の器を借りた、湊の知らない誰かがそこに確かに生きている。様々な人と交わりながら、時に見守りながら、その時代にそこに生きる人々と共存していた。  季節は芳しい春から躍動溢れる夏へ。葉の色が克明に変わっていく様が、花を散らす雨の強さが、爽やかな風の温度が感じられそうな空が、人々の上に均しく刻まれ流れていく。  生命の彩りが移り変わる画面に見入りながら、湊は不思議な感銘を受けていた。感動とも郷愁とも思える感情がじわりと滲んでくる。一つひとつはありがちな人生だが、だからこそ共感を呼ぶのだろうか。  身近にある、想像しやすく馴染みやすい世界がそこには在った。 「――いかがでしょうか」  全てを流し終わった小野瀬が見せるのは、自信に満ちた表情だ。湊の様子から手応えを感じたのだろう。  瞬間的に脳裏に焼き付くような派手さはないが、いつまでも心に残る風景を、上手く切り出せていた。完成度は非常に高い。  そのままの感想を伝え、二、三の編集上のアドバイスを付け加えると、真剣にメモを取る小野瀬に一言断って、湊は先に席を立った。  自分のフロアに戻るエレベーターの中で、壁に寄りかかって眼を閉じる。  画面の中の弘人が目の前にいながら、脳裏にはずっと、一緒に出かけた日の弟の姿ばかりが浮かんでいた。俳優海津弘人ではない、ただの彼の弟の顔が、繰り返し繰り返し、ずっと。  無性に大切な誰かに会いたくなるような、大事にしたくなるような、そんな淡い優しさに満ちたCMだった。  その日の夜、湊の携帯に弘人から一通のメールが入った。  内容に多少の躊躇いはあったものの、承諾の返信をする。  昼間の気持ちを引き摺っている部分もあったが、それよりも、湊自身が弘人に会いたくて仕方がなかった。

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