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第14話
マネージャーからのアドバイスは、至ってシンプルかつ難題だった。
原点に戻れ。
平坂はそう言った。
子どもの頃のように、同じ釜の飯を食べて一つ屋根の下で眠れば、兄弟の距離なんてあっという間にその頃に戻るだろうと。
はっきり言って自分たちには危険な綱渡りになりかねないアドバイスだったが、あれこれ悩んでみたところでそれ以上に効果的な方法が見つからなかった弘人は、週末夜の今現在、兄のマンション前に立っている。
ダメ元で送ったお泊り申請メールがいいよの一言で返ってきた時の衝撃といったらなかった。自分のことを好きだと公言している男を部屋に入れて、あまつさえ泊まらせるなど、我が兄ながら何を考えているのか。弘人の本気と理性を試しているのだろうか。
嬉しさと不安と期待ですでにぱんぱんな弘人はもう弾けそうだ。
緊張で痛くなってきた腹を押さえて、事前に教えられた暗証番号で入り口のオートロックを解除する。
しかし暗証番号が生年というのはどうなのだろう。変なところで雑な兄の防犯意識が心配だ。
三階の角部屋が兄の部屋なのは、彼がここに越した時から知っている。年季の入った合法ストーカーを舐めてはいけない。さすがにオートロックの暗証番号までは知らなかったが、予想の範囲内ではあったから知っているのと大差なかった。
プレートの入っていない扉の前に立ち、深呼吸をする。
格好良く言えば獲物を前にして高揚する気分を宥めるために。格好悪く言えば好きな人の家に初めて訪れて震え上がる鶏を立派な七面鳥にするために。
正直格好悪くの方の例えはいらなかったかもしれない。
軽く混乱しながらインターフォンを押した。無機質な呼び出し音の後に、機械を通しても耳に心地よい美声が応える。
こんなところにさえ萌えてしまえる自分が怖かった。もう気色悪い域に達している気がする。
鍵が回る音がして思わず一歩後退した。開いた扉の隙間から室内の明かりが零れてくる。
そして兄が。
スーツでも外出着でもない、髪を下ろしたラフな部屋着の兄が一緒に零れ出てきた。零れるって何だろう。彼は液体じゃない。眩暈がする。
ふらっと体が傾いだ弟に何やってるんだという眼を向けた湊が、扉を全開にして招いた。天国の門か地獄の門か、入ってみなければ分からない。鶏は勇気を振り絞った。
リビングに案内されて、示されたソファーに大人しく腰掛ける。あまり物がない部屋だ。生活感はそこそこにあるけれど、独身男性の住まいにしては片付いている。
リビングテーブルにぽんと置かれたパソコンが、ブラックアウトしたまま放置されているのが気になった。仕事を持ち帰っていたのだろうか。
「兄さん、その……仕事、大丈夫だった? 残業とか……」
もしかしたら本来今夜は、一週間の中でやり残した仕事をやっつけなければならなかったのではないか。弘人が来るから、それを会社ではなく家に持ち帰る破目になったのではないだろうか。そうだったとしたら申し訳ない。
だが、弟のそんな小さな遠慮を、湊はあっさり否定した。
「お前が来るまで暇だったから、少しデータ整理してただけだよ。変な気遣うな」
「……そっか、待っててくれたんだ」
「……。夕飯、まだだろ。ちょっと待ってろよ」
嬉しくなって笑った弘人からついと眼を逸らし、湊はキッチンへ入って行った。どうやら夕食を用意してくれていたらしい。ますます嬉しくなる。
「兄さんのご飯、久しぶりだな。何作ってくれたの?」
「別に、特別なものなんて何もないよ。あり合わせだから、文句言うなよ」
そう言いながらも並べられる料理の中には、さり気なく弘人の好物が混ざっている。もう何なのだろう、殺す気だろうか。
きゅん死にという言葉を頭に巡らせながら、手土産の酒を差し出す。好きな銘柄だったらしく、いそいそと開封された。
「いただきます」
「召し上がれ」
両親が亡くなってから、海津家の台所は兄が仕切った。弘人は湊の料理で育ったと言っても過言ではない。一番の食べ盛りの頃、弟の成長が健やかであるようにと、彼が一所懸命料理本や栄養管理の本を読み込んでいたのを知っている。おかげで、弘人は食に関して悲惨な思いをしたことは一度もなかった。
その兄の、お袋の味とも言える手料理が並んでいるこの光景が、幸せでなくて何と言うのだ。しかも向かいには兄本人がいる。視覚だけで腹がいっぱいになれる。
だがしかし現実の胃袋は別だった。
「弘人、もうちょっとゆっくり噛んで食べなさい。職業柄だろうけど、早食いは体に悪い」
「うん。でも今は止まんない。久しぶりすぎて体が勝手にかっ込むから」
「お前さ、もうちょっと兄さんが叱りやすい反論しようよ」
「はは、兄さんのその言い方、超懐かしいね。昔よくそんな感じで困ってたよね」
「おかげ様でね」
片目を閉じて照れ臭そうに笑う表情が似合う日本人なんて、滅多にいない。食べながらガン見してくる弘人に気づいた湊がきゅっと眉を寄せるが、結局すぐに解けた。
和やかな笑い声がどちらからともなく溢れてくる。平坂の言う通りだ。同じ釜の飯を食べているだけで、二人を包む空気がこんなにまろやかになっていく。
それから二人はゆっくりと、色々な話をした。食事を終えて弘人が持ってきた酒と簡単なつまみを間に挟んで、テレビの音声をBGMに。それは二人の間に流れていた緊張感をやわやわと揉み解すには十分な時間だった。
「っと、もうこんな時間か。弘人、先に風呂行っておいで」
「ああ、うん。でもまだ飲むから、このままにしといてよ」
「はいはい。あ、着替え持ってきたか?」
「あるよ、大丈夫。それじゃお先」
「ん。ちゃんと温まれよ」
兄の保護者のような口調に笑いつつ着替えを持って浴室へ向かい、ご機嫌に鼻歌など歌いながら服を脱いで、そこで弘人ははたと気付いた。
――――この空気は、完全に家族のそれ、ではないだろうか。
先日の初デートが思い浮かぶ。今の二人を包む空気はあの時よりもぐっと家族らしい。いや家族なのだからいいのだけれど、そこには色恋の気配が入り込む余地がなかった。それは大問題だ。
シャワーを捻る。頭を冷やしたくて、冷水設定にして頭から被った。
家族以上の関係になりたくて泊りを決行したのに、また家族としての時間が心地よくて浸っていた。本当は自分は、普通の家族のままでいたいのだろうか。やはり、兄は兄として、弟は弟として、過ごしたいのだろうか。
この胸に宿ったと思った思慕は、恋情ではなくてただの兄弟愛だったのだろうか。
遥か昔に気付いたはずの感情が、混ざりすぎると時に分からなくなる。
冷たいシャワーに打たれる体がどんどん冷えていく。まるで滝行だと、煩悩を洗い流せもしないくせに家族としての安らぎも求める中途半端な自分を、弘人は苦く笑った。
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