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第16話

 兄が固めた決意も知らず一時間近くの滝行の後やっと風呂から上がってきた弘人は、やけに不揃いに切られたチーズを渡されて、湊が風呂へ消えるのを見送った。  冷水は程よく弘人に冷静さを取り戻させてくれた。自分の気持ちの不確かさに悩むなんて、よくよく考えれば今更過ぎて笑ってしまう。  先程までの自分は、あまりにも二人の間で生み出された空気が優しくて、少し眼が眩んでいただけだ。  家族としての関係で良いのならば、綺麗なだけの感情を相手に向けていられる。そのことに少し心惹かれただけ。誰だって、自分の不細工な部分などできれば見たくないのだから。  相手と恋をしたいと思う以上、避けては通れない暗所だってある。そこを踏破して手を伸ばすのが、恋だ。家族で良い程度の相手にそこまではしない。少なくとも弘人は。  そもそもこの気持ちが恋かそうではないかなど、一発で見極める方法がある事を、体を洗いながら思い出した。下品ではあるが一発だ。  己の分身が反応したら、それ即ち恋だろう。恋とは肉欲も伴うものなのだから。  シャワーでは洗い流せなかった煩悩が役に立った。泡だらけの手でじっと己の一物を掴み、兄の姿を思い浮かべてみたらぴくりと反応したそれを、思わずいいこいいこと撫でたのはあまりに情けないので湊には内緒だ。  そんなわけで、今の弘人に敵はいない。いるとしたらただ一人、まだその気持ちをはっきりと口にしてくれない、兄本人だけだ。  態度ではもうかなり許されていると思う。再会した日の一度だけだがキスもしたし、そんな相手をこうして迎えてくれている。  好物を用意してくれていたり、時間を割いてくれていたり。冷静に行動だけを見ると、脈がないということはないだろう。  ないだろうけれど、やはりはっきりとした意思表示が欲しい。言葉でなくとも構わない。抱き締め返す腕だけでもいいし、差し込んだ舌を甘く噛んでくれたりするだけでもいい。 「――あれ?」  ふと何かが引っ掛かって、弘人はチーズを摘む手を止めた。今何か、とても大事な何かに掠った気がする。  頭に浮かびかけた記憶を引き出そうとした時、浴室のドアが開いた音がして、意識がそちらへ向いた。途端、思い出しかけた何かがするりと抜けていく。  惜しい気もしたが、まあいい。大切なことなら自然と思い出せるだろう。  それよりも今は。 「兄さん、このチーズ旨いね。どこ…の……」  明るい笑顔で振り返った弘人は、そのままの姿勢で固まった。  視界の中で、風呂上りの兄が腰にタオルを巻いただけの格好で仁王立ちしている。  なぜ。  濡れた髪が頬や首筋に張り付いているのが色っぽかった。日に焼けない白い肌が眩しい。長身に綺麗に乗った筋肉がしなやかで眼を奪われて、けれど。  なぜ兄は、真っ裸で自分を睨み付けているのだろう。 「あの、兄さん? どうし……!?」  戸惑った弘人の胸倉を掴み、湊は乱暴に引き寄せてきた。何が起きているのか理解できない。まさか殴られるのだろうか。  一先ず素直に拳を受け入れるために歯を食いしばった弘人の唇に、湿った温かいものが重なった。思わず閉じていた瞼をばっと開ける。  近距離に兄の秀麗な顔があった。 「に…――ん、んッ」  呆然としている隙を突いて再び重なった唇が、今度は少し深めに吸い付いてきた。  滑らかな舌が唇の割れ目をなぞる。淫靡なその動きに弘人の頭がぞくりと痺れた。 「…はっ……、兄さん、いきなり、どうしたの」  いつの間にか弘人の膝を跨ぐ格好で湊が腕の中にいた。  腰にタオル一枚でなどある意味視覚の暴力に等しい。物凄くまずい。  いや、まずくはないのか。何と言っても兄からキスをしてきたのだから。キスを。……キス。  はっと弘人は思い出した。  そうだ、キスだ。湊からの意思表示なんて、そういえばだいぶ前、あの再会の日のキスで返ってきていた。  絡まってきたではないか、突然の弘人のキスに応えて。兄の舌が。調子に乗ったら股間を握り潰されそうになったけれど。痴漢呼ばわりされたけれど。  その場の雰囲気に流されて、あんなことをする兄ではないのに。なぜ気づかなかったのか。なぜ忘れていられたのか。  無言で見つめてくる彼と視線を交わらせる。互いの瞳の奥に探り合う気配を感じて、弘人は湊の裸の背に掌を滑らせた。 「兄さん、いいんだね?」  上擦って掠れた声を恥ずかしいと思う余裕も消し飛んだ。  気づいてしまった。兄の瞳の中の自分と、兄が同じ表情をしていることに。  ――――同じ、欲情を孕んだ眼を。 「いいよ」  泊まりを願った時に返ってきたものと同じ、短い返事。  その一言に兄がどんな想いを込めていたのか、やっとそこに思い至れた気がした。

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