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第18話
金曜の夜から土曜にかけて、兄弟はかつてなく爛れた休日を過ごした。
主に弘人が兄を離したがらなかった結果だが、湊とて気持ちは同じだったのだろう。たまにいい加減にしろと怒られることはあっても、結局黙って弘人に寄り添ってくる彼の瞳はいつも甘かった。
そしてどこまでも許されて有頂天になった結果、日曜に兄が熱を出した。そこでようやく慣れない男同士では無茶ができないと悟るなど、遅すぎる。
考えれば分かることなのに気が回らなかった自分を責める弘人に、湊はお互い様だと笑った。熱で上気した頬と潤んだ瞳で微笑まれて、よく自重できたと弘人は自分の自制心を称えたものだ。尤も、その自制心が上手く制御できずに熱なんてものを出させてしまったのだけれど。
一日中看病していたかったが、本日日曜には弘人の仕事があった。
映画宣伝用の写真撮影とちょっとした会談だから、そこまで時間は取られない。すでに写真は撮り終えているし、後は軽く話して今日は終わりだ。
元々取っていた休みにねじ込まれた仕事な上に、体調の悪い兄を置いて出てこなければならなかった弘人の機嫌はすこぶる悪い。
だが仕事なのだからこういうこともあると十分に理解しているし、不機嫌を表に出すほど子どもでもない。大体仕事があること自体が有り難いのだから。
などと大人ぶって諭す理性と、正直な感情が小競り合う。兄と再会してから脳内会議は激しさを増すばかりで、穏やかに握手を交わす日は未だに来ないようだ。
「弘人、昼はどうする? 用意してくれるそうだけど」
「いえ、早く帰りたいのでいりません。……丁重に辞退させてもらえますか」
思わず正直に答えてしまった後に付け足すと、平坂が人の悪い顔でにんまりと笑った。その顔のままからかい口調でつついてくる。
「お兄さんと仲良くやれてんだ? よかったよかった、俺もアドバイスした甲斐があったよ」
「仲良く……まあ、そうですね」
仲良くし過ぎて寝込んでいるとは言えないが。間違いではないので柔らかい笑みと共に頷いた。
平坂は素直な弘人の反応にからかう気も失せたのか、苦笑を浮かべて首を振る。溜息のおまけ付きだ。
「はーあ。恋人にしたい芸能人ランキングで常に三位以内という輝かしい成績を誇る男が、ブラコン。ただのブラコン。こんなブラコンだったなんて……」
「いいじゃないですか、ほっといてくださいよ。誰に迷惑かけてるわけでもないんだから」
「うん、いいんだけどね? せめて人からブラコン連呼されたら形だけでも否定してみようか、大人として」
「……どうして否定する必要が?」
「………ああうん。もうダメなんだね、お大事に」
真顔で首を傾げた弘人に真顔で返した平坂は、腕時計を確認して移動を促した。こうなったらご希望通り、さくさく終わらせて早く帰してやろう。
仕事中はうまく隠しているが、現場から離れると弘人の不機嫌はだだ漏れになる。
うっかり他人の眼にそんな姿を晒すよりは、望み通り彼の兄のもとへ素早く返却した方が互いのためだと、平坂はあっさり判断を下したのだった。
マネージャーの尽力の賜物か、予定よりも早く仕事を終えた弘人は途中で買い物をして兄のマンションに戻った。
車を地下に乗り入れて、そのままエレベーターに乗り込む。買い物袋をがさがさと言わせながら部屋にたどり着き、インターフォンを鳴らした。
「……あれ?」
出ない。眠っているのだろうか。
何度鳴らしても室内で人の動く気配はなかった。兄は元々深く寝入らないから、インターフォンの音で目を覚まさないタイプではない。
まさか倒れているのではと焦った弘人が玄関ドアを蹴破ろうとした丁度その時、横から掛かった呆れ調子の声がそれを止めた。
「なにやってるの、お前」
エレベーターから降りた湊が、ジーンズのポケットに手を突っ込んで悠々と歩いてくる。
少し気怠そうだが、今朝より顔色は良い。
ほっとした弘人を押し退けて鍵を開けた彼に続いて中へ入り、その顔を覗き込んだ。
「どこ行ってたの。熱は?」
「平気」
額に触れる。確かに熱はもう下がったようだ。風邪ではないから、熱が下がったらもう大丈夫、と言えるのだろうか。
病院に連れて行きたかったが、今朝そう言ったら死ぬ程嫌がられて断念したのだ。
考えながら額からこめかみに指を滑らせて、そのまま頬を背で撫でる。ほとんど無意識の仕草に湊が困ったように目を伏せた。その目尻に誘われるように口付けると、身を捩って逃げられる。
少し耳が赤い。かわいい。
「で、どこに行ってたの」
ソファに腰掛ける兄を横目に、買ってきたものを冷蔵庫に入れていく。水分と栄養は大事だ。念のためにドラッグストアにも寄ってきたから、救急箱の在り処も訊かなければ。
つらつらと考え事をしながら作業をしていると、いつの間にか背後に立っていた湊が無造作に手を突き出した。掌に何か握られている。
「ん」
「なに?」
拳を下から掬うと、指が解かれる。
湊が手を退かすと、弘人の掌に真新しい鍵が置かれていた。
「失くすなよ」
合鍵。
弘人の眼が点になる。
辛い体を引き摺って、わざわざ自分に渡す鍵を作りに行っていたのか。
「……うん」
顔が崩れる。嬉しい。物凄く、嬉しい。
兄がもう一度テリトリーに入れてくれた実感が湧いてきて、鍵を受け取った弘人はそれを握り締めて笑った。
嬉しくて照れ臭くて、こそばゆい。傍に居ることを許された証だ。
合鍵は合鍵。一緒に住めるわけではない。
それでも、この鍵を使っていつでも兄の住処を訪ねられると思うと、今のところはそれで満足だった。
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