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第20話

 湊が長期出張に出ている間に、やっておきたいことがあった。  幸い今の時期は比較的自由になる時間がある。彼を成田まで送り、朝一番の飛行機が飛び立つのを見届けると弘人はそのまま車を走らせて懐かしい町までやってきた。  町の中心部からやや奥まった所にその家はある。古くはあるが定期的に手入れのされている門扉をくぐり、敷地内のガレージに車を収めて玄関に立った。  黒大理石で作られたプレートに砂埃が付いている。今日は風が強い。  砂埃を軽く払い、そこに刻まれている字をなぞる。今この家系でこの苗字を名乗るのはたった二人だけだ。自分と、兄だけ。  生まれ育った生家は、湊が出て行ってから弘人の管理下にあった。親から引き継いだほとんどを弘人に残し、自分は着の身着のまま出て行った兄が、ここに里帰りしたことはない。少なくとも弘人が知っている内では一度も。  恋しくて、焦がれて、けれど拒絶されて、ちらりともこちらを振り返ってくれない兄を憎んだこともあった。両親と兄と自分、四人家族だった頃の幸せな光景が溢れ過ぎている家に一人取り残された時の、言い様のない焦燥は今でも忘れられない。どこを見ても、どこに触れてももうどこにもいない家族の面影がある、そんな家に長く一人で留まれるはずもなく。  成人と同時に弘人もこの家を出て、今では専門の業者を入れて修繕やクリーニングを行うようにしていた。兄が帰ってきた時に、いつでもすぐに生活できるように。  願いでもあるそれが叶えられたことはないが、これからもそうだとは言えない。特に、兄と新たな関係を築き始めた今なら尚更だ。  現在の自分たちの拠点はこの町にはなく、今それぞれで暮らしているマンションからこの家に越してくることはないだろう。無理に生家に足を運ぶ必要もない。待っていてくれる両親はすでにいないのだから。  そう思って生家の話しは特に再会後にもして来なかったのだが、それは間違いだったとこの間の湊の様子で思い至った。  静かに泣き続ける兄の、糸が切れたような姿が思い浮かぶ。激しい行為の後の火照りの引かない体を投げ出して、自分がなぜ泣いているのかも分かっていない無防備な顔をして、ただただ切なげに困惑していた。  あの時二人の間で溢れていた想いは、きっと同じだった。だが、湊のそれは弘人よりも深かっただろう。それは覆せない二人の立場と同じものであり、そして兄が兄として生きてきた時間の深さに比例するものだろうから。  覚悟を決めて、受け入れた。  想いを込めて、繋がった。  そこには二人以外の誰かの存在など必要なく、彼らだけの世界に浸るには二人の承認があれば十分だ。他の誰に許される必要もない。  だが、人は欲深く、我侭だ。そして、矛盾と共に生きる淋しい生き物でもある。  強いばかりではいられない時、休める場所が必要だった。そのために今日、弘人はこの家までやってきたのだ。  一人きりでこの家に入るのは勇気がいる。しかし、今は独りではない。  深呼吸をして、弘人は久々に触れた鍵を鍵穴に差し込んだ。  半日を使って生家から湊のマンションまで戻ってきた弘人は、貰った合鍵を使って兄の部屋に転がり込んだ。  湊が出張から戻って来るまで、ここで過ごす予定だ。長く空けた家はどうしても寒々しくなる。そんな家に兄を帰すつもりはなかった。  長期、とはいっても精々二週間かそこらの出張だ。互いの仕事に関して詳しく話したりはしないが、今回は二、三箇所の支部を回ると聞いた。途中多少治安のよくない国を渡る必要があり、万が一何かイレギュラーが起こった時のために多めに予定を立てていると言っていたから、何事もなければ二週間よりも早い帰国となるだろう。  不安だったが、言っていても仕方がない。横切るだけでも危険な地域ならまずルートからは外されるだろうし、会社だって許可は出さないだろう。心配してしまうのは止められないが、そう信じて待つしかない。  湊のマンションのリビングは広い。統一された家具の色調は穏やかで、窓の向こうには暮れなずむ空が見える。綺麗な茜色に染まるフローリングをぼんやりと眺めながら、冷たいリビングテーブルにこてんと頬をつけた。  湊の部屋なのに、湊がいない。  六年だ。再会までに約六年かかった。  その間、会いたくなかった日などなかった。けれど会えなかった。報告書で常に兄の動向は把握していたのに、会いに行く勇気が出なかった。  なのに、再会して想いを通わせた途端この様だ。口元が苦く歪んだ。  動く彼を常に視界に入れていたい。どこで何をしているのか、直接聞きたい。できるなら自分以外の人間と関わらせたくないし、仕事とはいえこんな風に離れていくのは許せない。  あまつさえ今回の出張を働きかけてきたのは湊の同僚だという。数日前気安い様子で電話をしているのを見て、自分でも狼狽する程胸が焦げた。  未だに燻る胸を抱えて溜息を一つ落とし、弘人は上げた顔を叩いた。しっかりしなくては。  兄はやるべきことをやりに飛び立った。弘人をまた置き去りにするために飛び立ったのではない。  日々を堅実に生きる人の隣に胸を張って立っていられるように、自分もやるべきことをやるのだ。  手始めに次の仕事の台本を取り出して開く。次は連ドラの主役だ。非常に難しい役どころだが、役者ならば挑戦せずにはいられない、そんな役だ。  字面を追っていくと、時は大正にまで遡った。  日本史において最も短い、和と洋の入り乱れた激動の時代。世の中が護憲運動に沸く中、高等教育を受けた知識人ながらその騒動を冷ややかに眺めているだけの一人の男が描かれている。それが今回の弘人の役割だ。  今まで弘人に来ていた役は、どちらかというと世間の海津弘人像に沿うような、穏やかで優しい大人の男ばかりだった。それが今回は百八十度イメージが変わる役柄で、早くも一部の週刊誌に取り上げられている。  弘人自身、台本を読んでわくわくした。ここまできつい影のある人物は演じたことがない。  撮影が本格的に始まれば、今度は弘人が長期出張に似た状況になるだろう。撮影用のセットは東京から離れた山奥がメインだし、そうでなくとも連ドラの撮影中にのんびりと恋人の下へ通う時間はない。 「てか、……恋人って」  自然に浮かんだ単語にはたと我に返って台本の上に突っ伏した。やることやっといて何を今更と思うが、兄を相手にするには慣れないその言葉に静かに悶える。  そう、恋人。恋人同士なのだ、自分たちの関係は。  兄弟や家族だけでない、望みに望んだ関係。恋人であり、兄弟であり、家族であるなんて、何て贅沢なのだろう。  テーブルの上であまりのこそばゆさに頭を振っていると、兄が置いていった私物のノートパソコンが目に入った。いつもこのリビングでそれを開いていた姿を思い出す。  浮かれた気分のまま、恋人という言葉でも検索してみようかなと、辞書のちょっと恥ずかしい単語にラインを引く中学生のような気持ちでノートパソコンを開いた弘人は、その浮かれっぷりに水を差す認証コードの請求に頭が冷えた。 「そりゃそうですよね~……」  乾いた笑いを漏らして、少し考える。マンションのオートロックが兄の生年だったことからして、それに近いものに間違いはないだろう。試しに兄の誕生日を入力してみる。  だが、電子的な音で拒まれた。ふむ、と腕を組む。兄の行動パターンの把握が甘いと言われているようで、機械相手にむっとした。 「……まさかね」  ふと思いついた四桁の数字を入力する。  途端、川のせせらぎのような音楽と共に明るいデスクトップが現れた。入力した位置のまま、弘人の指が固まる。  ――――パソコンのパスワードが、弟の生年とはどうなのだろう。それだけでも弘人の胸は信じがたい程の熱に覆われたのに、デスクトップの片隅でこちらを見ている見覚えのあり過ぎる少年の写真に、理性が飛ぶかと思った。  弟の生年をパスワードに設定し、その弟の少年時代の写真を後生大事にデータ化した挙句こうして貼っているなんて。もしかして家を出てからずっと、兄はこんな工夫をしながら自分を思い出してくれていたのだろうか。  堪らなくなって弘人は顔を覆い再びテーブルに突っ伏した。中学生がちょっと恥ずかしい単語にラインを引くなんてレベルじゃない。  小っ恥ずかしい。あの兄がこんなことをしていたなんて。乙女的思考回路からは程遠いはずの人が、こんな。こんな――。 「――やばい、今すぐ会いたい」  愛しすぎてどうにかなりそうだ。  この胸が千切れてしまわない内に、早く帰ってきて欲しい。力一杯抱き締めて、頬ずりして、そして二人一緒の写真を撮りたい。  そしたらきっと、ひっそりここにその写真が増えているのだろう。  そんな確信が甘く胸に滲んで、弘人は幸福な溜息をついた。

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