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第21話

「頼むっ、この通りだ!!」  目の前で額をカフェのテーブルに擦り付ける同期を、湊は苦々しく見下ろした。  思った通り、木戸は別の思惑があって自分をわざわざこの欧州の地まで呼び寄せたらしい。たった今その内容を聞かされた湊の機嫌は最悪だった。  何が悲しくて日本での業務を放り出してまで、こんなことに巻き込まれなければならないのだろう。全く納得がいかない。いかないが、木戸の気持ちも分からなくはない。  必死な様子の同僚の頭に重々しい溜息を落として、痛むこめかみを解した。つい小一時間前の、非常に不愉快な出来事が脳裏を過ぎる。  数ヶ月前まで在籍していたヨーロッパ支部に顔を出した湊を見て、支部長を務める木戸が発した第一声からして不可解だった。 「おま……何でおまえそんなんなってんのー!?」  百九十を越す長身の木戸は声も大きい。事務所の入り口で佇んで思わず眉を顰めた湊の腕を取って、問答無用で隣接する小会議室に連れ込んだ木戸は、改めてまじまじとその顔を覗き込んで頭を抱えた。  これだけでもう不快指数は相当なものだ。ヘルプに入ったはずの場所でなぜ出会い頭に頭を抱えられねばならないのか。 「何。そんなんの意味が分からないんだけど。帰ろうか?」 「いやいや短気を起こすなよ、起こさないで下さいお願いします」  促されて座った円卓に用意していたらしい缶コーヒーを置かれ、遠慮なく開ける。まじかーまずいなーまずいよーとぶつぶつ言いながら木戸も一つ空けた席に座った。 「おまえさ、日本帰ってから何かあった?」 「……何だ、藪から棒に」  一瞬缶を傾ける手が止まった。あったと言えばあった。人生を変える大きな出来事が。  湊の様子を注意深く窺っていた木戸が、複雑そうに笑った。 「いや、たぶんおまえにとっては凄く良い変化なんだろうな。何ていうか、雰囲気が柔らかくなって取っ付き易い感じになった。おまけに妙に艶っぽい」 「はあ?」 「艶っぽい……それが問題なんだよ………」  付け加えられた一言が余計だった。だが木戸は湊の不快さには頓着せず、再び頭を抱えた。  ふざけている訳ではないらしい木戸の様子に、足を組んで待ちの姿勢に入る。木戸は昔からそうだ。一度思い煩うとしばらくは自分の世界に入ってしまう。その間はどんなに周りが声をかけようと応えることはないのだ。  窓の外へ視線を流す。今日のパリはいい天気だ。高い空にうっすらと流れる雲も心地よさそうで、これが終わったらムフタール通りでものんびり散策するのもいいだろう。  久しぶりに工芸品のセレクトショップを覗きに行こう。何か掘り出し物があるような気がする。  嫌な予感しかしない木戸の反応から現実逃避に走った湊をじっと見つめて、大柄な同僚は決意を込めて頷いた。 「よし。俺は売るぞ、友人を」 「よしじゃないしね。どういうこと」  不穏な台詞を吐いた男を胡乱に見遣ると目を逸らされた。手指を何度も組み替える木戸を見つめ続けていると、やがて言い難そうに口を開く。 「あのな、実は今回わざわざ来てもらったのはな。トラブル回避っつーか、新しいパイプのためっつーか」 「はっきり」 「はい。今うちが取り掛かってるライン作りのための主要人物が、おまえに会いたがってるんだ」 「俺に?」  首を傾げる。欧州の新しいラインの主要人物になど心当たりがない。日本に戻ってからはそういったものに触れるパーティーにも出ていないし、表立って何かをした記憶もない。 「何かな、一年くらい前か? どっかのパーティーでおまえと話して、それから忘れられないんだと」 「はあ……」  一年前といえば忙しくあちこちに顔を出していた頃だ。一体どこでのことなのか分からないが、直接会えば思い出すかもしれない。  そもそもこの支部の仕事は多方面と繋がることを何よりも重要視する。ここで湊が変にごねる訳にはいかないだろう。要は相手方の機嫌を取りつつ、多少なりと取引に有益な状況を引き寄せることが、今回湊に求められることになるのだろう。 「わかった。つまり俺はその彼女をエスコートすればいいんだな?」  物分り良く頷いた湊を、だが木戸は申し訳なさそうに見つめた。その視線の意味が分からない湊に、噛んで含めるように言う。 「女じゃないんだよ、海津」 「……だが」 「ああ。女なら俺だってこんな思いはしないさ」  木戸の話しぶりからてっきり相手は女性だと思っていたが、なるほど。  ようやく木戸の反応の合点がいった湊は、思わず天井を仰いで椅子の背に深く凭れた。  なるほど。免疫がない訳ではないが、なるほど。 「相手方は純粋にビジネスとしておまえに会いたいだけかもしれんが、まあ……万が一があっても、貞操だけは守ってくれよ。コンプライアンスに引っ掛かるからな」 「……その人は、ゲイなのか」  同性間にだって仕事上のセクハラはあるし、恋愛だってある。身を持って重々承知している湊だが、これには困った。  女性なら力負けすることはないから、まだ余裕を持っていられるが、同性はどうだろう。だがそれも杞憂かもしれない。相手はただ湊に会いたいと申し出ているだけで、どうこうしたいとは思っていないかもしれないのだから。  そうだ、きっと自意識過剰なのだ。ビジネスパートナーとして名指しされた程度かもしれないのに、そちら方面だと決め付けてはいけない。  だが、気持ちを持ち直した湊を見つめ、木戸は深刻そうに溜息をついた。 「がちゲイだ。それも、気に入った相手はぺろっと食い散らかして渡り歩くタイプの」 「…………」 「……貞操帯、付けてくか?」  大真面目に呟いた木戸の頭を、湊はつい手加減なしに張り倒してしまった。  それが小一時間前。  そして今、木戸はテーブルに額を擦り付けている。  支部のすぐ傍にあるカフェで昼食を奢らせて、一服している最中だ。面倒なことになったが、サラリーマンである湊の返答は一つしかない。それでもこうやって平身低頭頼み込んでくる木戸の誠意に免じて、湊は吸い終わった煙草を灰皿に落としてやれやれと頷いた。 「分かったよ。できる限りのことはする」  がば、と顔を上げた木戸は相変わらず複雑そうだったが、それでもほっとしたように笑った。湊の貞操の心配は置いておいて、彼の交渉能力を戦力にできるのは非常に頼もしい。享楽的な面が強い今回の取引相手は、気難しさでも有名だったから。 「悪い。ほんと、恩に着る」 「ああ、目一杯着てくれ。で、進行状況は?」 「ほとんど詰めてるんだが、最後の一押しがな、おまえの件だったから。正式な契約書も作ってあるから、氏に会う時には持っていってくれ」 「わかった。名前は?」 「クラウス・ツォレルン。明日の午後二時、凱旋門近くのバルエールのロビーで待ってるそうだ」  手帳にメモを取りながら、告げられたホテルを思い浮かべる。五つ星らしい豪奢なホテルだ。一泊の料金もそれなりなのに、パリ滞在中はずっとそこなのだろうか。  湊の疑問を読んだのか、木戸が内緒話でもするように顔を近づけて声を潜めた。別に誰が聞いているわけでもないのに、相変わらず雰囲気を大事にする男だ。 「実はな、間にフォンが付く人なのさ」 「なるほど。ゲルマンか」 「生粋のな」  クラウス・フォン・ツォレルン。フルネームはもっと長いのだろうが、一年前の記憶を探っても該当する人物はいなかった。生粋のゲルマンというなら目立つ容貌のはずだから、ここはやはり会って思い出すしかない。 「じゃあ、明日二時にバルエールでと、ツォレルン氏に伝えておいてくれ」 「了解。面倒だろうが、よろしく頼むよ」  豪快に肩を叩かれて席を立つ。  クラウスが何を思って湊を指名したのかは分からないが、ある程度はどこにでも付き合えるように下準備をしておかなければならない。そういった点では数ヶ月前まで拠点となっていたパリでよかった。ここならば、接待で使い慣れた店も多くある。  木戸と分かれた湊は、どうにも乗り気になれない気分を脇に置いて、淡々とエスコートコースのリサーチにかかった。

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