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第22話

 約束の時間に訪れたホテルのロビーには、観光にしろビジネスにしろホテルに留まる時間帯ではないためか、人影はほとんどなかった。  腕時計で時刻をもう一度確かめて、湊は絢爛豪華なロビーをゆっくりと歩く。  美しいホテルだった。ゴールドで統一された空間は下品にはならず、見事な調和を以て客を迎え入れている。どこか温かみのある色調は、慣れない者にも不思議と安堵を齎す効果があるようで、湊も特に気後れすることなく待ち合わせた相手を探せた。  ロビーの奥に投げた視線の先で、三十代前半のプラチナブロンドの男が立ち上がる。気付いた湊がそちらへ向かうと、強い青灰色の瞳に射抜かれた。  その瞳の強さに一瞬躊躇う。違和感が走った。 「――ムッシュ・ツォレルンでいらっしゃいますか?」  若干迷って無難にフランス語で呼びかけてみた湊に、男は綺麗に整った眉を上げた。大げさに両手を広げてみせる。  その表情に、また小さな違和感が生まれた。 「ドイツ語は?」 「失礼、ヘア・ツォレルン。お待たせいたしました、海津と申します」  互いに名刺を交換し、握手を交わすと痛いくらいに力を込められる。しばらく黙って微笑んでいたが、いつまで経っても離されないそれに目を落とし、背の高いクラウスを見上げると、彼は瞳を煌かせて笑っていた。 「僕は前時代的な人間なものでね。ヘアよりもヘルの方が好みなんだ」 「ではそうお呼びしましょう。……手を離していただいても? ヘル」 「おっと失礼。ようやく念願叶ったものだから、離れ難くてね」  ばちりと音まで聞こえそうなウィンクを向けられたが、湊の違和感はますます強くなっていく。  この男が、瀬逗と契約? ――そんな馬鹿な。  だが、思い当たった違和感に確証はまだなかった。相手の目的が分からない状況では下手な手は打てない。  一先ず自分の役割は彼のエスコートだと、湊は頭を切り替える。  事をどう運ぶかは考えていなければならないが、今はクラウスに集中するべきだった。  クラウスは実に分かり易くはしゃいでいた。  体格の良いゲルマンはそれだけでも目立つのに、クラウスは見目も良い。優雅な口元にくっきりと浮かべた笑みは人好きのするもので、道行く女性たちがちらちらと彼を振り返っていく様は見事だった。  現在湊は、なぜかそんな彼に腕を取られて歩いている。無理な逢瀬を願ったのはクラウスの方なのだから、エスコートは彼の特権だということで押し切られた結果だ。  それでなぜ女性のように腕を組まされているのか理解はできないが、外すと不機嫌になるので仕方なく大人しくしている。だがそろそろ周囲の視線が痛い。仕事のためとはいえ諾々とこんなことに従っている自分も痛い。  しかしクラウスは心底楽しそうだった。出会い頭のあの鋭い眼差しが嘘のように、嬉しげな瞳で湊を見ている。湊の返答に一々喜び、感心してみせ、そして何度も言うのだ、会えて良かったと。  一体自分の何がそこまで彼を楽しませるのか分からないまま、一日の締めにバーに誘われて湊は頷いた。 「では。今日の僕たちの再会に」 「今日の良き日に」  乾杯を済ませてアルコールを呷る。  落ち着いた雰囲気の洒落た店だった。誰もがほいほい入れるような店ではない。一定以上の収入と、品格。どちらも不足なく揃った者だけが入れる、そんなバーだ。  そこに、クラウスは嵌りすぎていた。日本だろうとどこだろうと、ここまで自在に己の雰囲気を変えられる人間はなかなかいない。  今のクラウスは夜とアルコールを味方に付けた、大人の男だった。昼間の少年の顔を彷彿とさせる男とはまた別人の、流した眼の端にまで色香が宿る、少し危険な匂いのする表情ははっとするほど彼に似合っていた。 「そう、ミュンヘンのあの辺はまだ手付かずでね。そろそろとは思っているんだけど、タイミングがなかなかね」 「土地柄、いつまでも遊ばせておくわけにもいきませんしね。しかし今の情勢では少々不安かな」 「そうなんだよ。どうしたって絡んでくるものはあるから仕方ないんだけどね。それにしても……」  半日共にいて分かったことだが、二人の話題は意外と尽きなかった。しかもタイミング良く弾んでいく会話が面白い。趣味が似たようなものだと判明してからは、余計に二人の距離は近くなっていた。  この出張が終わって日本に帰る前に、湊はドイツに寄って民芸品を集める予定だ。クラウスはドイツ市場を把握しているし、腕の良い細工師も多く知っている。自然と会話はそちらへ流れ、そして気付いたらドイツへ移動する際にはクラウスに連絡を入れるよう念を押されていた。  それを受け入れて、重ねた杯とクラウスの顔を見比べる。程よく酔いが回り出したのか、彼は至極上機嫌だ。この半日で得た確信を確かめるならば、そろそろだろう。  居住まいを正した湊に、クラウスは首を傾げた。ドイツの夜空のような黒々とした湊の瞳が、真っ直ぐにクラウスを捉える。 「ヘル。一年前のパーティーで、私とお会いしたと伺いましたが、事実ですか?」 「ああ、もちろん事実だ。当時から僕は君とこんな風に寛いで話してみたかったが、生憎君は忙しそうで、一言二言話しただけで終わってしまったが。それがどうかしたのかい」 「――今日、貴方とお会いして、私は一年前の夏に顔を合わせたとある方のことを思い出しました。彼は貴方と良く似ていたが、記憶していた名が違った」 「なるほど。あの時のパーティーには所謂お忍びという奴で参加していたのでね。本名は名乗っていなかったかもしれないな」  おどけた仕草で肩を竦めたクラウスから目を逸らさずに、湊はゆっくりと頷いた。それは予想していた答えだ。 「では、貴方のご友人との会話は、覚えていらっしゃいますか」 「……友人?」  ぴくりとクラウスの片眉が跳ねる。注意深く表情を観察していると、眉を寄せて記憶を手繰り寄せていたらしい彼が、はっと目を見開いた。 「『今回のプロジェクトは二年がかりになる。完成するまでは新規との新たな取引は認められない』 ――まだあれから一年ですが、もう完成したんですか? それとも、他に余力を割く程余裕ができたのかな」 「……よく、覚えていたね」  片手で額を覆ったクラウスの仕草に憎めないものを感じて、湊は軽く肩を竦めた。  今日、ロビーで顔を合わせた時、すぐには分からなかった。一年前の彼は偽名どころか変装までしていたらしく、赤茶色のくねくねとした髪をしていたから。ライトアップされたバーの中で、神々しくさえあるプラチナブロンドの髪とは全く違う。 「もう一つ思い出したことがありますが、聞いていただけますか、ヘル」 「何を言いたいかは分かるとも。僕が君に言ったことなのだからね。――そうだよ、今回のこのセッティングは瀬逗との取引のためじゃない。君を再び我が社へ勧誘するためだ」  やはり、と湊は溜息をついた。  おかしいと思ったのだ。出会い頭の反応から、木戸が言うような目的で自分が呼ばれたのではないと悟っていた。もしも一時のアバンチュールの相手として見られていたのなら、あんな目つきで品定めをするように探られたりはしなかっただろう。フランス語での問いかけにわざわざドイツ語で答える必要もなかったはずだし、彼のホームの言語で問題なく会話できるかなども、この半日を使って試す必要もない。  ただのエスコート役なら、そしてただの火遊びの相手として選ばれただけなら、そんなまどろっこしい真似など時間の無駄でしかないのだから。  しかしそれがヘッドハンティングとなれば話は別だ。 「ヘル……」 「いや、まだ断らないでくれ、ミナト。あの時のように一刀両断されないために、今回時間を作ってもらったのだから、もう少し僕に付き合ってはくれないか」  熱意を込めてファーストネームを呼ばれ、膝に置いていた手を握られた。少し高い目線で押し包むように見つめられると、なるほど、彼は確かに魅力的な男なのだろう。弟以外の同性は歯牙にもかけない湊でさえも、その瞳の熱に吸い込まれそうになる。  去年、彼からのヘッドハンティングをその場で断ったのには理由があった。そんなに大層な理由ではないが、色々な国を飛び回る海外支部での仕事が楽しかったことと、どこの誰が来ているかも分からない公の場で、初対面にも関わらず自分が持っている情報だけで突然勧誘などしてきたクラウスの非常識さに腹が立ったのとで、考えるまでもなかったのだ。  だが、今はどうだろう。  クラウスは恐らく、互いを知り合うためにこの時間を作った。その結果、もしも彼の会社に入ったならば、きっと楽しく働けるだろうと思うくらいには親しみを感じている。  おまけに、好き放題やってきた海外支部から本社に戻った自分は正直なところ退屈していた。なかなか現場を渡る機会もなく、自分の足で前途有望なアーティストを探しにいける訳でもなく。人にしろ物にしろ、発掘して育て上げることに喜びを見出す湊にとって、現状は決して満足できるものではない。  しかし。 「……大変魅力的なお誘いなのですが、ヘル・ツォレルン。この場に私を引きずり出すために、貴方はヨーロッパ支部の木戸に取引をちらつかせた。結ぶ気のない契約なはずだ。そんな詐欺紛いのことをするような人の下へ、私が喜んで行くとでも?」  問題はそこだった。  断ろうが受けようが、元々ないも同然の契約なのだ。そんなもののために時間と手間と金をかけさせた。支部どころかそれは瀬逗への明確な損害であり、平気でそんなことを仕掛けてくる相手に我が身を委ねることなどできない。  怒りを孕んで煌く瞳は凄絶に美しい。表情よりも雄弁な湊の視線を受け止めて、クラウスは背筋に走った震えを心地よく思った。  一年前と同じ、いやそれ以上に鮮烈な眼差し。この一撫でに、あの日からクラウスの心は囚われたのだ。  ――――やはり、欲しい。  この一年、湊を引き抜くために画策してきたクラウスとしては、引く気はなかった。  狭い枠の中に押し込められた湊が窮屈な思いをしていることも知っているし、これまで彼が手掛けてきた仕事を追って、その特性はよくよく理解した。問題点さえクリアすれば、湊はクラウスの手を取るだろう。自分の下でならば、彼が望むように働かせてやれる自信はある。 「ミナト。ヘル・木戸から契約書を預かっていると聞いた。出してくれないか」 「……? はい」  薄暗いバーのカウンターに広げられた上質紙にざっと目を通すクラウスを湊は怪訝に見遣ったが、次の彼の行動にはきょとんとしてしまった。書面を確認したクラウスは、特に何も言わず末尾にサインを入れ、判まで捺してしまったのだ。  ごく当たり前に完成した契約書を渡されて、湊は困惑の面持ちでクラウスを見つめた。てっきり交換条件くらいは出されると思っていた。  戸惑う湊を心行くまで眺めて、彼は朗らかに笑う。それは裏のない、明るい笑顔だった。 「始めは確かに、君を手に入れるために取引を持ちかけるつもりだった。けれどね、そうしてしまうと僕は君に嫌われるだろう? それは嫌だったから、君の返事がどうだったとしても、契約だけはできるように頑張ってみたんだ」 「はあ……」  無邪気に告げられてほとほと困った。確かに、契約がこうやって先に成されてしまえばヘッドハンティングに乗ったとしても大して問題にはならないだろう。時期は考えなくてはならないが、そう難しくはない。  当初の予想からはだいぶずれ込んだが、話は決して悪くはなかった。だが即決はできない。大学を出てすぐに就職した瀬逗への愛着や恩義はもちろんあるし、クラウスの会社で働くとなったら基本的に外国暮らしになる。ようやく近くにいることを実感できるようになってきた弟と物理的な距離が開くのは好ましくないし、もう離れたくはない。  だが、紳士的に話を詰めてきたクラウスの姿勢には素直に好感が持てた。彼の会社で働くのも面白そうだし、その経験は湊の人生において良質な糧となるだろう。 「うちは少数精鋭で経営しているからね。君が来てくれるならとても心強いだろうな。期間はそうだね、とりあえず一年くらいなら待てるから、返事はそれまでに聞かせてもらえるかい」  随分悠長な申し出に驚くが、告げられた期間にかちりと符号が重なった。もしそれが正しいなら、こんな風にわざわざ湊を誘うのも納得できる。 「今進めているプロジェクトは、日本も関係しますか?」  確信を込めて尋ねた湊を、クラウスは面白そうな顔つきで見た。この回転の速さと、少ない情報の中からでも正確に核を読み取る能力も、クラウスが彼を引き抜きたい要因だ。 「そう。詳しくはまだ言えないけれど、君が引き受けてくれるなら、日本との絡みを全て君に任せようと思っている。しょっちゅう日本とこちらを行き来することになるから、君の体は大変だろうけどね」 「……なるほど」  どのくらいの頻度で日本に帰国できるかは分からないが、フランスなりドイツなりに腰を据えるわけではないのか。ならば、弘人と会える間隔も案外短いかもしれない。  平静な顔の裏で、湊は正直なところ物凄く揺れていた。本来ならばここまで惹かれることにそう逆らわない。少し前の自分ならば、一も二もなく頷いていただろう。  しかし。 「相談したい相手がいるので、一度このお話は持ち帰ってもよろしいでしょうか」  頻繁に戻って来られると言っても、居住が外国になったら、弘人は嫌がるかもしれない。  小さな子どもではないのだが、弟にはもう、寂しい思いはさせたくなかった。 「……もしかして、恋人かな?」  からかうように、窺うように口端を上げたクラウスに、家族です、と返そうとして湊は口を噤んだ。間違いなく家族ではあるし、大切な弟だが、今のこの気持ちにそれは不似合いな気がして躊躇いが浮かぶ。 「……。……はい」  家族よりも、彼の言うように恋人の方が正しい気がして頷いた湊を、クラウスは無言で見つめた。  戸惑って彷徨った瞳を伏せた湊の風情が、クラウスの胸を衝いた。弱い部分などないかのように凛と背を伸ばして立つ彼に、こんな顔をさせるのは誰なのだろう。  気にはなったが、年上の沽券に賭けてクラウスはにっこりと微笑んだ。上手くすれば、これからの彼の時間は自分と共に流れるようになる。自分に自信を持つ彼は、今がどうだったとしてもその時間を楽しみに待つ余裕があった。 「では、悔いのないようによく相談して、決めるといい。心が決まったなら、こちらに連絡して。僕のプライベートナンバーだから、いつでもかけてきてくれて構わないよ」  携帯ナンバーを走り書きしたメモを手渡され、湊はそれを失くさないように仕舞った。  誠意を持って接してくれた相手に対しては、きちんと誠意を持って返さねばならない。  どんな答えを出そうともそれだけはどこに対しても貫こうと、湊は改めて心に留めた。

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