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第23話

 今日は起きた時から何となく落ち着かなかった。  数日前から撮影が始まった。今日の弘人は午後からの入りだったため、何となくそわそわしながら朝から部屋の掃除をして出かけてきた。  弘人一人のシーンを何箇所か撮り、監督とああでもないこうでもないと意見を交わす。今回世話になる日野監督は四十代そこそこの男臭い男性で、一見すると大正に焦点を当てたドラマなど撮りそうにないちょい悪オヤジだ。初めて彼と対面した時には、その見た目と映像に対する姿勢のギャップに良い意味で裏切られたものだ。  日野は弘人を役者として育ててくれた一人であり、その実力を買ってくれている一人でもある。俳優として新境地を開くことになる今回の画を彼のカメラに収めてもらうのは、弘人にとって嬉しいことだった。 「じゃ弘人、そこの椅子座って。そう。よし――アクション!」  助監督が構えたカチンコが高らかに撮影開始を告げる。それと同時に弘人の意識がすう、と沈んでいった。  演じている間、弘人はいつも水面下に居るような心地になる。海津弘人という個人が消えて、吹き込まれた別人の魂が抜け殻を使って動き出すのを見ている、そんな感覚だ。  演技指導を受けた養成所ではそんな方法は習わなかった。習ったのはもっと効率良く役に馴染み、操れる方法だったように思う。だが結局、弘人はこういうやり方でしか、役に命を吹き込むことはできなかった。  暗示にも似た演技方法は決して褒められたものではないのだろうが、幸いにもその独特の演技には今のところ高評価を得ている。役が決まった時点でその役に関する勉強は怠らないし、台本の中の世界で生きている感覚に近づけるよう、普段からの役作りにも手は抜かない。努力や周囲との関係、それから環境、もちろん運もあるだろう。様々なものに支えられて預けられた自身の評価を、弘人は過大も過小もせずそのまま受け止めていた。  セットの中で、弘人演じる高柳宗二郎が息を吹き返す。眠りに就いていた男が蘇る感覚は、一言では言い表せない。  ハンディカメラを構えた日野は、眠りから醒めたように椅子の上で瞬いた男をじっと見つめた。この脚本を書き始めた時には主役は誰にしようかなんて候補者を数名浮かべていたが、書き終えた時にはもう弘人しか考えられなくなっていた。  海津弘人という役者は稀な逸材だと日野は思っている。初めて見た彼の出演作で、日野は衝撃を受けた。主役でも準主役でもない役だが、名もないような端役でもない、そんな難しい役柄を服のように着こなしていた俳優の名と所属事務所を、大慌てで探し当てて接触を図ったくらいには、衝撃を受けた。  彼の一番の長所はその素直さだ。どんな役でもありのままに受け入れ、育て、大切に慈しむ。だから主役ならば主役に相応しい輝きを放つし、端役なら端役に相応しい味を出せる。何十年も演じ続けてきた大御所ならともかく、俳優を生業とし始めて間もないような、人生経験だってそんなに多くはない年頃の若者がそこまでの域に到達していること自体が奇跡のようだった。  たくさんの目とレンズに晒されながら、黒髪を固めた高柳宗二郎は酷く不機嫌な顔つきで椅子に座っている。高々と脚を組んで上体を捻り、立派な肘掛に頬杖を付く姿は不遜極まりないが、驚く程優雅だ。  舞台は夜の社交界。上流階級出身でありながら、訳あって野に放たれた高柳は、高等教育で共に励んだ悪友たちに嵌められてそこにいた。美しいイブニングドレスの淑女に誘われても立ち上がりもしない。彼に声をかけた女性たちはやがて彼の徹底的な無視に腹を立て、その場を立ち去っていく。周りに誰もいなくなって、ようやく彼は傍に立て掛けておいたステッキとシルクハットを手に立ち上がった。  腰を上げる動作一つ、ステッキで床を打つ音一つ、そしてつまらなさそうな顔をシルクハットの影に隠す仕草一つ。全てが流れるように滑らかで、否応なく人の目を惹き付ける。  このシーンの高柳の台詞は一言もない。にも関わらず、彼の存在感は圧倒的だった。給仕係から受け取ったインバネスコートを片手に広間を後にする長身を見送った人々が、さざめきながらあれはどこの誰だと噂するが、その答えを知っている者はこの場には誰一人としていなかった。  満足のいく出来に、日野は頷いて助監督に合図を送った。カットの声と共にカチンコが再び鳴り響く。  OKの許可にセット上のエキストラたちが各々次のシーンに備えて慌しく移動していく中、ステッキにシルクハットを引っ掛けた弘人は待機用の椅子に腰掛けた。入れ替わりに色鮮やかな和装で社交界のセットに上がったのは、主役である高柳宗二郎がその人生において唯一求めることになる女性を演じる、女優南方エマだ。自分というものをしっかりと持っているが、控えめな性格のようで、初顔合わせから程よい距離感で仲良くやっていけている。  後に、他者と距離を置いて接する高柳の許されざる恋の相手となっていくヒロインは、イギリス人と日本人のハーフでなければならない。それもよりイギリスの血を濃く引き継いだ容姿の。その点を完璧にクリアしている南方は、柔らかなブロンドと抜けるような白い肌が印象的な美女だ。歳の近い共演者の中には冷やかし半分で羨ましがる者もいるが、弘人にとっては相手が兄でないなら誰であってもそういう意味での興味の対象にはならない。同じ作品に取り組む仲間という認識でしかないため、残念ながら彼らの期待に応えられる日は来ないだろう。  しかしマネージャーの平坂はそうは思っていないようで、南方と弘人のツーショットを真面目に警戒していた。本人たちにその気がなければどんな噂が流れようと意味はないのにとは思うが、余計なゴシップを生ませないのもマネージャーの務めだと言われてしまえば何も言えない。平坂の気が済むようにさせていた。  そうやって目を光らせる平坂を見ていると、万が一自分と兄の関係がばれた場合どう出るのか多少気にはなる。が、もしもスキャンダルを気にして引き離しにかかるようならそれまでだろう。世話になった平坂と事務所に後ろ足で砂をかけることになるが、兄かここでの仕事かどちらを選ぶと言われれば、迷いなく兄を取る。演じる場所は日本だけではないのだから。  セット上では南方演じる相沢小枝子が社交場にうまく馴染めずに右往左往している。所在無く歩き回って疲れた彼女は間もなく壁の花と化し、やがてしょんぼりと広間から出て行った。そうしたら次はいよいよ、高柳との出逢いのシーンだ。  シルクハットを被り直して、弘人は立ち上がった。ルックスだけでない演技派の彼女との共演は、純粋に楽しめるし勉強にもなる。  大正に花開いた苦しい恋の始まりを告げる合図が高らかに鳴り響き、弘人は再び忘我の世界へ踏み込んでいった。

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