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第24話

 今日の分の撮りが終わって現場を出た弘人は、タイミング良く受信したメールを確認した途端慌てて駆け出した。  駐車場までの道のりで平坂に直帰の旨を伝え、車に飛び込む。  今朝からのそわそわはやはり虫の知らせだったようだ。メールは兄の帰国を知らせる内容で、彼はすでに成田を出てマンションへ向かっているという。ここからならば湊よりも弘人の方が早く着けるだろう。撮影が押さなくて本当に良かった。  兄を見送って、一週間と半分。予定よりも早く切り上げたようだ。  やっと会える。帰ってきた。帰ってきたのだ。  マンションに着いた時、まだ部屋の明かりは点いていなかった。それにほっとして急いで暗い部屋に入り、電気とエアコンをつけていく。  風呂が沸く間にキッチンに入り、いくつか小鉢を作った。外国から帰ってきたばかりだから、和食がいいだろう。夕食の時間で良かった、一緒に食卓を囲めると戻ってきた実感を持てる。それはお互いにとって、日常を取り戻すために必要な儀式に思えた。  色々と準備を終えてやっと人心地ついた頃、鍵が回る音がした。逸る気持ちを抑えて早足で出迎えに行く。  開いたドアの向こうでは、スーツケースを片手に兄が意外そうな顔で立っていた。出張の疲れを感じさせないいつも通りのピシッとした格好と、元気そうな顔色に自然と弘人の頬が緩む。 「おかえり、兄さん」 「ただいま……お前、待っててくれたの」  荷物を受け取る弘人の顔をまじまじと見る湊を手早く室内に引き寄せて腰を攫う。  スーツケースを床に置くのと、久しぶりの唇を味わうのは同時だった。  柔らかい感触が少し荒れている。やはり見ただけでは分からない。疲労は確実に蓄積されているのだろう。  上唇と下唇を交互に食むと、安堵したように零れた吐息が愛しかった。  湊の口腔はいつも熱い。外側から見ただけのイメージでは想像もつかない熱さを翻弄しながら、実はいつだってその熱と甘さに翻弄されているのは弘人の方だ。  互いに息を切らせて濃厚な口付けを解くと、いつの間にか湊を壁に押し付けていたことに気付く。長距離移動で疲れているはずの人に何してるんだと思いつつ、ダメ押しのように首筋をきつく吸って離れた。こんなものでは全然足りないが、先に休ませてやらなければかわいそうだ。 「風呂、準備できてるから先に入ってきて。ご飯温めとくから」 「うん。でも、先にお前」 「……えっ」 「ちょっとだけ。お前」  悪戯っぽく微笑んだ兄に襟を引っ張られて、やっと言葉が脳に届いた弘人はがばっと湊を抱き締めた。  何という小技を覚えたのか。 「人がせっかく我慢してみたのに何なのこの人! ラブリー! マイエンジェル!!」 「うわ………」 「どん引き!?」  本気で嫌そうな顔をされてややショックを受けたものの、即座に気を持ち直して唇に吸い付いてみたら、ちゅ、と吸い返されて燃えた。  キスを交わし合ったままリビングへ入り、ソファへ傾れ込む。湊のネクタイに指を引っ掛けて一気に引き抜き、肌蹴たシャツから覗く肌に夢中で触れた。 「脱げよ」  潤んだ眼差しで短く命じられるとぞくぞくする。  すでに半裸の湊が弘人の腕をつ、となぞり上げていく。半袖を潜った指に二の腕の内側を優しく撫でられると、それだけで下半身に熱が溜まりそうだった。 「やばい……ちょっとじゃ済まなくなるって」 「ちょっとだよ。お前が作ってくれた夕飯、楽しみなんだから」  頭を抱き寄せられて、甘く囁かれた日にはもう。  ちょっと程度のつまみ食いで終えられる自信は全くなくなってしまったが、できるだけご希望に添えるよう頑張ろうと、弘人は目の前の淡く色づいた乳首に噛みついた。  ソファで一回ずつ抜き合って何とか収まりはしたものの、だらだらとくっついて余韻に浸っていたら、結局夕食は予定よりも大幅にずれ込んだ二十一時前になった。  やはり和食にして正解だったようで、大根おろしを冷奴に乗せる兄の表情は至福そのものだった。冷奴に大根おろし、さらにその上から鰹節を乗せて頂くのが好みの兄のために、今夜は鰹節も奮発した。すでに削られてパック売りされている手軽なものではなく、塊を食前に削り出すのだ。香りも味も際立つそれを見て、兄はうっとりと頬を染めた。  ちょっと鰹に妬ける。 「新しいドラマ、大正時代だから、日本史勉強し直してるよ。改めて見てるとあの時代って凄く面白いんだよね。大正ロマンっていうの、俺分かってきたかも」 「大正か。確かうちの祖父さんだか曾祖父さんだかが何か持ってたっけ」 「え、何? 山高帽とか?」 「それっぽいやつとか、色々。俺も一回しか見たことないし、小学校上がるくらいの年だったからよく覚えてないけど」 「おお……どっちか生きてたらなあ。あ、そうだ」  弘人は魚をほぐしていた手を止めて身を乗り出した。 「もしかしたら家にあるかも」 「家? ……ああ、実家?」 「うん。ばあさんが亡くなった時、遺品は物置に入れっ放しだったろ。あの中にあるんじゃないかな」 「ああ……」 「探しに行ってみようよ」  遠い昔を思い起こすように瞳を細めた兄の顔を覗き込んで、さり気なく誘ってみた。湊が出張から帰ってきたら、生家へ連れて帰りたいと思っていたのだ。  弘人の誘いに、湊はしばらく考えてから頷いた。 「そうだな。そろそろ修繕とかも必要だろうし、一度見に行くか」 「あ、メンテナンスはしてるから大丈夫。行く時は普通に里帰りで行こ」 「してくれてたんだ」  何だかまたもや意外そうな表情をされてしまった。  今日出迎えた時といい、もしかして湊はまだ自分のことを子どもだと思っているのではないだろうかと、弘人は苦笑してしまう。兄の前では妙に子ども返りしてしまうから、そう思われていても仕方ないが。 「してたんです、実は。掃除とかも気にしないでいいから、着替えだけ持っていこう」 「分かった。……その、本来なら俺がしとかなきゃいけなかったんだよな。ありがとう」 「いいって。兄さんが出来ない状況にしちゃったの、俺なんだから」 「…………」  流れた沈黙に、あ、と思う。  失敗した。  できるだけ明るく言ったが、兄の眉間に皺が寄ってしまった。別の言い方はいくらだってあっただろうに、わざわざ当て擦りのような言い方をしてしまって焦る。  難しい顔をして考え込んだ湊の様子に、急いでフォローをするつもりで開いた口は、箸を置いた彼の真剣な表情を前に閉じざるを得なかった。 「弘人。やっぱり、恨んでるんだな、俺を」  大真面目に確認を取られて、反射的に首を横に振る。けれど否定の言葉が上手く出てこない。  言葉を探しあぐねる弘人の様子をじっと見つめて、湊が隣に移動してきた。弘人にも箸を置かせて、両手をそっと包んでくる。 「正直に教えてほしい。あの家にお前を一人にしたこと、本当はすぐに後悔したんだ。でも、戻らなかった。お前が寂しい思いをするって分かってて、一度も戻らなかったんだ。恨まれて当然だと思う」 「そんなことっ!」 「ひろ」  何故なのだろう。  どうして、今になってそんな昔の、そして今なお弘人が引っ掛かっている感情を暴こうとするのだろう。それに何の意味があるのだろう。  分からない。言いたくない。なのに、見つめてくる兄の瞳は悔いと労わりに満ちていて、巧妙に隠したはずの気持ちを引き摺り出される。目の当たりにした兄の悔恨に、だったらどうしてと詰りたくなる。自分がそうさせたくせに。自分が兄を追い詰めたくせに。  取られた両手が温かかった。遠い日の兄の後ろ姿が浮かぶ。眼を閉じて、開いたら今の兄が静かに弘人の憤りを待っていた。  ふ、と、肩から力が抜ける。 「………恨んでたさ、そんなの」 「……うん」 「何で俺だけ置いてくのって思った。誰も居ないのに、キッチンとか、トイレとか、ベランダとか、庭とか。廊下にだって父さんや母さんや兄さんの気配があるのに、何でそんな家で独りにするんだって思った」 「うん」 「けど、兄さんが出て行ったっきり戻ってこなかったのは俺のせいで……俺がもっと強くて、気持ちもコントロールできるくらい大人だったらこんな風になってないのにって思ったら、もう……堪らなくて」 「……」  抱き寄せられて、髪に唇を埋められて、優しく背中を撫でられて。  ああ淋しくて哀しかったのは自分もだったのだと、弘人は次々に溢れる涙で気が付いた。  あの家が必要だったのは、本当は自分の方だったのかもしれない。  だって、ずっと言えなかった。言ってはいけないと思っていた。 「……何で、俺を置いてったの、兄さん……」  なのに、兄の腕が許すから。甘ったれた弟の言葉も、涙も、理不尽も、赦されてしまうから。  涙と一緒に零した小さな慟哭を、湊は力を込めて弘人ごと抱き締めた。自分よりも大きく育った体を抱き締める兄は、やはりどうあっても兄なのだろう。 「ごめんな……。俺も、ずっと謝りたかったよ、ひろ」  お前が言ってくれたから、俺もやっと謝れる。  そう言って微笑んだ湊の顔を馬鹿のように見つめて、弘人はくしゃりと顔を歪めた。

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