25 / 76

第25話

 子どものような肌の重ね方をして眠りに落ちたあどけない寝顔の隣に頬杖をついて、湊は弟の髪をさらさらと撫でる。  指通りの良い柔らかさに飽きることなく撫でていると、時々手のひらに甘えるように頭を押し付けてくるのが可愛い。  クラウスのことを相談するつもりだったが、結局言い出せなかった。  けれど言わなくて良かったとも思っている。  こうして弘人との穏やかな時間を享受していれば、魅力的に思った提案がぼんやり霞んでくる。弘人を再び置いていく程の価値ある話に思えなくなってくる。  別段クラウスの下、という環境で働くことを望んでいる訳ではないし、現在勤めている会社が嫌で仕方がない訳でもない。削っていくとただ単純に、自分の楽しみだけが理由での転職だ。それが国内で終わるならそれでも良いが、この話を受けたら拠点は日本から遠く離れる。つまり弘人から遠く離れる。  人との距離と仕事を天秤にかける日が来るなんて思ってもみなかった。おまけに今回は、仕事というよりほとんど自分の我侭のために、大事な人との距離を開こうとしていた。  今までの湊なら、多少迷いはしても結局仕事を取って、恋人にも愛想を尽かされていただろう。それでも仕方がないとあっさり諦めていただろう。  けれど、今は。  弘人の前髪を梳き上げて、現れた形のいい額にキスを落とす。起こさないよう気をつけてベッドから降りて、寝室から出るとリビングのソファに腰を下ろし携帯を開いた。  日本は深夜だが、ドイツは十九時頃だ。今ならかけても問題はないだろう。  こういう話は早い方がいいと、貰ったプライベート番号を入力し携帯を耳に押し当てる。  数度のコールで出た聞き知った声が、滑らかに挨拶を紡いできた。 『こんなに早く連絡を貰えるとは、何だか嫌な予感がするね』 「急で申し訳ありません。今少しよろしいですか」 『構わないよ』 「ありがとうございます。例の話の返答をさせてください」 『……答えはNein、かな?』  苦笑交じりのクラウスに申し訳ない気持ちはもちろんある。今までの自分を買ってくれた上での引き抜きだったのだから、感謝もある。  しかし湊が口の端に乗せられるのは、誠実な対応を心掛けてくれた相手への、正直な言葉だけだった。 「お誘いいただいたことには、心揺れました。貴方の下で働くことは、きっと私にとって良い経験となったでしょう」 『ふむ』 「しかし、私は私の人生において、もう二度と引く訳にいかないものがあった……帰国してから、それを改めて思い知りました」 『それは、僕の傍では守れないものなのかな』 「場合によっては可能でしょう。ただ、酷く無理をさせる。それは私の望むところではないのです」 『……ということは、その引けないものとは、恋人?』  一段落ちたトーンに冷やりとするものを感じながらも、躊躇わず肯いた湊の短い返事を聞いて、クラウスは深々と溜息をついた。電話越しにでもその落胆は知れる。 『恋人の存在ひとつで人生を左右する事柄を決断するのか。そんなタイプには思えなかったがね』 「失望させてしまったことは謝罪します。これまでの私なら、迷いなく貴方の手を取ったでしょう。申し訳ありません」 『君をそう変えた恋人にぜひ会ってみたいものだね。結婚して連れて来るという手段は取れないの?』 「結婚ですか……」  結婚。  相手が日本に固執しない女性ならばその手もあったかもしれない。しかし、弘人と自分にその方法は取れないし、何よりも日本の宝を国外に連れ出すことなど出来ない。  苦笑を零した気配を察したのか、クラウスが密やかに笑った。共犯者のような笑い方に、何を言われるか気づいて先んじた。 「相手は男です」 『なるほどね。一筋縄ではいかないはずだ』  木戸の話を信じるならば、男同士の事情というものにはクラウスの方が精通しているのだろう。証拠に、彼はそれ以上の追及を止めた。 『心から残念だが、君が決めたことだ、これ以上は言うまいよ。だが、期限はまだ丸一年ある。その間に状況が変わったら、いつでも歓迎するよ。もちろん、ビジネスとしても、プライベートとしてもね』  電話の向こうで茶目っ気たっぷりのウインクまで見えるような声音に、湊は感謝の意を込めて礼を言った。  クラウスとの接触期間は短かったが、彼は人としてとても魅力的な男だった。期待には応えられなかったが、これからは良い友人関係を築いていければいい。 「パリでの時間はとても楽しかったです。虫の良い話ですが、そちらへ行くことがあればまたお会いしたいと思っています」 『何を薄情なことを。僕らはもう友人だ、そうだろう? こちらへ来る来ないなど気にせずに、話したくなったらいつでもこのナンバーに連絡してくれ。君のプライベートナンバーは今夜押さえたからね、もちろん僕からも掛けるよ。その時には邪険にせずに相手をしてくれよ』  おどけた口調に笑いながら、湊は頷く。仕事絡みでまた会うこともあるだろうが、友人としても繋がっていたい、クラウスはそう思わせる人物だった。  ヘッドハンティングの話を断ったのに受け入れてくれる懐の広さが有難い。改めて感謝の気持ちを伝えて、湊は肩の荷が下りた心地で電話を切った。 「――兄さん、電話、誰?」 「弘人? ごめん、起こした?」  背中からかけられた不意打ちに肩を揺らしたのをどう思ったのか、パジャマ姿でリビングの入り口に佇んでいた弘人がすう、と眼を細めた。  冷ややかな視線だった。  そんな眼を向けられたことなどないし、今向けられる理由も分からない。寝起きで機嫌が悪いのかと思ったが、弘人はそういう体質ではないし、明らかに湊に対して不快さを露わにしているからそういうことではないのだろう。  対応に戸惑っていると、弘人が苛立った仕草で髪を掻き上げた。 「結婚? また会いたい? どういうこと。出張って、まさかの浮気? ……いや、結婚なんて話が出るなら、俺のが浮気だったってこと?」 「は?」  矢継ぎ早に投げつけられた予想外の言葉に、湊はぽかんと口を開けた。  浮気。  弘人との関係が、……浮気? 「答えてよ、何で固まってんの。……ちょっと、兄さん?」  結婚。なるほど。  浮気。なるほど。  つまり弘人は、湊が出張を理由に本命の彼女にでも会いに行ったと、自分との関係は遊びなのではないかと、そう思ったということか。  思い至ったそれに、ソファの背もたれ越しに見つめ合ったまま、湊は腹の底から湧いてきた感情に全身を震わせた。

ともだちにシェアしよう!