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第26話
だって、本当にショックだったのだ。
幸せな空気が残ったままの寝室で目を覚まし、兄の姿を探したらリビングの方から声がしたから、ふらふらと出ていけばソファで兄が誰かと楽しそうに話していた。
零時も大幅に回った時間に電話する相手なんて限られている。その言語がドイツ語だったから、すぐに今回の出張先の人間だと分かった。それに加えて断片的に結婚や再会を望む言葉を聞き取って、かっと頭に血が上った。
そして問い詰めた結果、眼を見開いてぶるぶる震えた兄は今、目の前で腹を抱えて爆笑している。
「兄さん……ちょっと……」
「ごめ、おち、落ち着くから、ちょっと待って……ふはっ」
ひぃだめだ捩れるなんて目に涙すら浮かべて悶える兄なんて見たことがない。
そして自分の嫉妬のどこがそんなに可笑しいのかも分からないから、一緒に笑うこともできない。
「なんなの……」
肩は落ちるが、兄の様子から考えていたようなことではないと悟って、弘人の悋気もどこかへ消えた。こんなに笑われるなら、頭ごなしに疑ってかかって馬鹿なことを言う前にきちんと話を聞けば良かった。でもこんな風に笑う湊の姿なんて初めて見たから、これはこれで良かったのかもしれない。
だが、弘人のそんな甘い考えは笑い疲れてソファに転がった湊の眼付き一つで吹っ飛んだ。
「……っ」
ぱらぱら額にかかった前髪の隙間から、鋭い、鋭すぎる眼光が覗いている。笑いの余韻で口角は上がっているし目尻は赤いが、その実欠片も笑っていない眼奥に底冷えするような光が宿って弘人に突き刺さっていた。
――――怖い。
あんなに笑う姿も、こんな射殺すような視線も、どちらも初めて見せ付けられた弘人は反射的に姿勢を正した。
笑みの形で固定された湊の唇が薄く開いて弘人を呼ぶ。怖い。
「こっちへおいで」
「はいっ」
一も二もなく兄が寝転ぶソファの傍にすっ飛んできて正座したのは本能だろう。
完全に受け入れ態勢の弟を頬杖突いて眺め出した湊は、それきり何も言わない。口元だけで微笑んだまま何も言わない。
怖い。
静かに静かにかけられるプレッシャーは重すぎた。身動きが取れない。息が出来ない。普段そんなに見られない微笑を惜しまず浮かべた湊から発散される怒気が半端なかった。
泣きそう。
突き刺さる目線を捉えておくことができなくて、うろうろと視線を彷徨わせ始めた弘人の顎に長い指がかかる。びくりと怯えた弟の眼を逸らすことも許さない強さで再び取り戻し、湊は殊更優しげな声音を吐き出した。怖い。
「俺が、弟相手に二股かけるクソ野郎に見えると?」
「みっ……、見えませんっ」
「出張中に愛人と乳繰り合ってるクズだと?」
「思ってません!」
「俺を怒らせたお前は?」
「ゲスって勘繰ったアンポンタンです!!」
腹の底から叫んだら、ふんと鼻で笑われて顎を解放された。
知らぬ間に調教されていた事実に愕然とするよりも、兄の瞳に温かみが戻ったことに死ぬ程安堵する。
怖かった。物凄く怖かった。寿命が三百年程縮むような怖い眼だった。
「分かってるならいい。今後二度と同じことを言わせるなよ、ヒロ軍曹」
「はい! ご指導ありがとうございました、ミナ大佐!!」
子どもの頃の遊びを持ち出してきた兄に乗っかった弘人は、ああなるほどと理解した。
物心ついた頃から兄の教育は始まっていたのだ。逆らえるはずがない。
弘人の見事な敬礼を見て、湊がふっと笑った。緊張感の抜けたいい笑顔で、いつもの柔らかな仕草で弘人の寝癖頭を撫でてくれる。
優しい指先に無条件で胸が弾んだ。
「さっきの電話はね。出張先で俺を自分とこの会社に誘ってくれた人への、お断りの電話だったんだよ」
「へえ……ヘッドハンティングってヤツ?」
「そう。面白そうだったけど、今はいいかなって」
「なんで? 面白そうって思ったなら、やってみたかったんじゃないの?」
寝そべった腹に甘える弘人の髪を弄りながら、湊はうん、と眉尻を下げた。
その困った顔にきゅんときて下がった眉尻をなぞると擽ったそうに首を竦める仕草が可愛い。先程のミナ大佐とは大違いだ。
「話を受けたら、俺はヨーロッパ在住になったなあ。可愛い弟との楽しい生活はここまで。残念だなあ」
「え………」
かちんと固まった弘人の顔をニヤニヤ眺めてくる湊が憎たらしい。
そんな風に言われたら、自分が無駄に虚勢を張れなくなるのを彼はよく知っているのだ。兄の腹に顔を押し付け、弘人はせめてもの反撃に滑らかな腹筋に噛み付いた。
服越しだから痛くはないのだろう、頭上から抑えた含み笑いが落ちてくる。
「俺のためにやりたいこと我慢しないでとか、優しいこと言ってやれない兄不孝者を許してください」
「口先だけなら許すけど、本心でその優しさ出してきたら遠慮なく捨ててくからね」
「やだむり」
「うん俺も無理」
だから素直でいろよと撫でられたら、もう頷くしかない。
どんな時でも弘人は湊の潔さに突き落とされ、救われる。骨の髄まで叩き込まれた弟根性は、こんな時でさえも弘人に格好つけることを許さないのだ。下手に格好つけたら、取り返しがつかないこともあると身を以て知っているから。
だから弘人は素直に従う。
建前に流されている余裕はない兄との関係を続けていくために、自分の欲望には真っ正直に従うことを疾うに選んだ。それを兄も望んでいたから。
「断ってくれてありがと」
「いいえ。どうしても何かやりたくなったら起業するから、その時はお前使わせろよ」
「どんどん使っちゃって。専属だってなっちゃうよ」
「海津弘人を専属とか、どんだけギャラいるんだよ怖いわ」
伸び上がって湊と軽いキスを交わしていちゃいちゃしていると何でもやりたい気持ちが湧いてくるから不思議だ。これがべた惚れという病気の副産物か。
「何言ってんの、兄さんからギャラ貰うわけないでしょ」
湊のためなら、いくらだって無償奉仕できてしまう。だから気持ちのままそう告げたらアホの子を見る眼をされた。
ひどい。
「自分の価値を自分で下げるヤツは嫌いだな、兄さんは」
「ぐっ……。意地悪い……でも好きっ」
「あはは、ばぁーか」
鎖骨にぐりぐりすると頭をぐしゃぐしゃにされて、自分が犬なら千切れ飛ぶ勢いで尻尾を振っているんだろうなと弘人は思う。
悔しいくらい大好きだ。
そんな兄が守ろうとしてくれている生活を、弘人も全身全霊を懸けて守り抜こうと誓った夜だった。
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