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第72話
ここまで良くしてもらったのに差し出された手を取らないとなれば、傲慢な人間ということになるのだろうか。
クラウスの瞳を見返しながら湊はぼんやりとそんなどうでもいいことを考えた。
彼は紳士だと思う。誠実で、押すべき時に押して引くべき時に引ける、本当の意味での大人だと思う。円熟された魅力が言動の端々に滲むいい男だ、間違いなく。
ここで彼の誘いに乗れば、恐らく湊は今よりは楽になれる。以前から乞われていたビジネスのパートナーとしても、プライベートでのパートナーとしても彼に着いて行けば。日本を遠く離れて、もう二度と弘人と繋がる道を選ばなければ。
――――しかし。
片時も眼を逸らす事無く自分の返答を待つクラウスを見て思う。
確かに彼は、湊への興味はあるようだ。それはこれまでの付き合いでさり気なくアピールされていたし、その都度躱してきた。そして彼はそれを受け入れてきた。
自分たちの間に恋の感情はない。クラウスが向けてくる興味はあくまで興味の範疇から出ておらず、言うなれば少し変わった親愛の情でしかないのだ。
その気持ちだけでも人と繋がる事は十分に出来る。時が経てば変わってくるものもあるし、今が苦しいのならば彼と行くというのも選択肢の一つだ。
クラウスは紳士で、誠実。それは知っている。そしてもう一つの彼の性質も知っている。
根っからの狩猟民族であるその本質も、知っているのだ。
フランスで木戸が言っていた事が、その本質をよく表していた。気に入った相手が難しい相手であればある程執着し、だが手に入ると途端に興味を失くす、その結果があの風評に繋がっていたのだろう。
移り気というわけではない。その時その時は本気で相手を愛し、大切にするのがクラウスの流儀なのは間違いない。ただ、続かないだけで。
湊はきっと、それに合わせることも、受け入れることもできない。弘人にそうされてここまで疲弊しているのは相手が弘人だからで、クラウスに同じように扱われてもわりと平気な気はするが、そんな虚しい関係は最初からお断りだ。
それにやはり、弘人以外の人間と生きていく未来が、どうしても浮かばなかった。
今はもうそれは自分一人が抱える空の未来図になってしまったが、だからと言って空いた隣に別の誰かを入れる気はない。今後もきっとないだろう。
辛抱強く湊の反応を待っているクラウスを改めて見つめる。
眉が動いた彼に返答するため口を開いたが、言葉はノック音で遮られた。
「失礼致します、ヘル」
扉の外から呼ぶ声に応え、クラウスが目礼して席を立つ。来日する際念のために本国からボディガードを連れて来たらしく、目立つ彼らは扉前で仕事中だったはずだ。
何かあったのだろうかと何とはなしに眺めていた湊の耳に、こんな場所で聞くはずもない声が流れ込んできて、思わず立ち上がった。
追いかけて来たのか。
なぜここが分かったのか。いやそれよりも、なぜ追う必要があったのか。
二人の関係性を確かめる、そんな彼の目的は誤魔化しようのない姿を晒した事で明らかになったのに。
まだ何かが足りなかったのかと、クラウスとその声の抑えたやり取りが交わされる入り口に眼を走らせるが、声の主の姿はここからは見えなかった。
いくらかの問答の後、不思議そうな顔をしたクラウスが戻って来る。
「ミナト、君の弟が来ていて、君に用事があると言っているのだが……」
立ち尽くす湊を見てクラウスは口を噤んだ。
不審に思われる前に何か言わなければと唇を動かすが、開いたそこからは何も出て来ない。
「……何て顔色をしているんだ」
だいぶマシになったと安堵していた湊の肌は完全に血の気を失い真っ白になっていた。半端に開かれた唇も青く、言葉の代わりに浅い呼吸が繰り返されている。
尋常でない様子に、クラウスはまさか、と隠された手首に視線をやった。それからこれまでの彼の言動を思い出す。彼のような男が自分の人生を投げ打ってまで尽くそうとする相手とはどんな人間かと思っていたが、まさか。
凍結したように動かない湊が、それでも部屋の外の気配に意識を集中しているのが分かって、クラウスは無言で踵を返した。
何はともあれ、まだ完全に冷静でない彼に会わせるべき相手ではない、そう判断して。
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