75 / 76
第75話
「い、たぁ……」
床に転がった拍子に打った頭を押さえて悶える。減速もせず全速力で駆け込んで来た湊を放り出さないように両手を使ったから、碌に受け身も取れなかった。
「びっくりしたあ。兄さん、怪我ない? ……うあっ」
「……っ」
扉に挟まれたりしていないか確認しようとしたら、マウントを取っていた湊の手が弘人の襟首を締め上げてきた。
苦しい。
先程の黒服連中といい、今日は一体どんな厄日だ。
「ちょ、くるし……、……? 兄さん……?」
ぱたぱた、ぱた。
頬に落ちてくるものに気付いて、上に乗っている人を覗き込んだ。
弘人を締め上げながら、びっくりするぐらい大量の涙を滴らせて、兄が歯を食い縛っている。
「え、なんで泣いて、え、どうし」
「……思い出した、のか……?」
「え」
「思い、出した、のか。俺を」
「……あ………」
途切れとぎれの。嗚咽混じりの。
辛うじて搾り出された言葉を聞いて、そういえばまだその事に関して兄に何も伝えていなかったのを思い出した。
なるほど、そういうことか。だから、今こうして飛び出して来たのか。
道理で、扉の外で外人と押し問答をしていただけでは顔を出してもくれなかったはずだ。あの時にでも形振り構わず叫んでいればよかったのか。
兄の会社関係の人だからと遠慮なんてせずに、中にいた兄に叫べばよかったのだ、今の自分はもう大丈夫なのだと。
あり得ない間抜けっぷりに愕然としつつ、弘人は湊の濡れ続ける頬に手を伸ばした。
「うん、ごめんね」
「――軽いっ」
「痛っ、げほっ」
早く泣き止ませたくてあえてさらっと謝ったら鎖骨を殴られて変な咳が出る。
ごほごほと体を跳ねさせると、跨った兄から落ちてくる雫がきらきら、奔放な放物線を描いて散っていって、それがとても綺麗だった。
うっとり眺めながら、見下ろしてくる顔を撫でる。
端整な顔が台無しだ、こんなに泣いて。
こんなにぐしゃぐしゃになって。
――――自分のせいで。
「なん、何で、笑ってるんだよ……!」
引っ切り無しに嗚咽を漏らす唇を柔らかく食んで、湿った声を吸う。
襟首を引っ掴んでも、殴っても、詰っても、湊は弘人の上から退こうとしない。
離れようとしない。
これがにやけずにいられるだろうか。
「人の気も知らないで、お前なんて、お前、なんて――っ」
「うん」
「……くそ、最低だ……っ」
「うん」
殴った襟元に湊が顔を伏せる。
ひとりはぐれた迷子がやっと親を見つけたように、シャツをきつく握られて皺が寄った。
「………ひろ」
「うん」
「ひろ…、ひろ……、………ひろ…と……」
「うん」
繰り返し名を呼んで確かめてくる湊の顔を上げさせて唇を重ねる。喘ぐように開いた隙間に舌を滑らせて、涙以外でも濡らしていく。
何度も何度も、確認される度に舐めて、吸って、応えた。
「……っ、ひろ………!」
「……うん……」
どうやら涙を止めるのは失敗したようだけど、しがみついてくる湊の体が熱くて、物凄く久しぶりのキスがしょっぱくて。
誰が乗ってくるかも分からない場所だということも吹っ飛んでいる兄を抱き寄せて、もう少しこのままでと弘人は気付かれないように微笑んだ。
数時間前に飛び出したホテルを引き払って湊のマンションに帰った時には、すでに午前零時を過ぎていた。
無理矢理抱いた体にこれ以上負担をかけてはいけないとか、どう見ても疲れきっているのだから早く休ませなければとか、常識的に躊躇ったのは一瞬で。
部屋に入った途端エレベーターでの続きのように唇を甘噛みされたら、あっという間に昂ぶった。
「明日、仕事?」
後頭部に手を差し込んで、仰向いた顔の至る所に口付けていく。薄い瞼が震えて、熱っぽく潤んだ瞳が隠された。
「そうだけど、いい」
「……でも」
「昼から現場行くだけだから。午前中は元々半休取るつもりだったし……それに」
「うん……?」
すり、と頬擦りされて、滅多にない甘えた仕草にとくりと心臓が跳ねる。
宿泊していたホテルに行く時も、マンションに帰ってくる時も、彼は弘人の手や服の一部を捕まえようと指先を彷徨わせてははっとして引っ込めてを繰り返していた。その葛藤と欲求がまざまざと見える姿に内心悶絶していたのだが、人目がなくなった途端のこの密着度はどうだ。
かわいすぎて悶絶どころじゃない。
キスを中断して弘人の頭を抱え込んだ湊が、そっと掠めるように呟いた。
「今度こそちゃんと、お前の全部と抱き合いたい」
あのお前も、俺のひろも、本当は全部欲しかった。
そんな風に求められて、やっと言ってくれたと心のどこかに残っていた自分の欠片が嬉しそうに溜息を吐いた。
今なら、あの時は解らなかった自分の真意も全てが解る。
どんなに巡り巡っても、結局はこの人に、本能で恋をするのだ。
ともだちにシェアしよう!