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第29話
車窓を流れる見慣れた町並みに持ち始めた奇妙な感慨は、数年ぶりに目にした生家の佇まいを見た途端はっきりとした郷愁に形を変えた。
緑濃い季節、庭は荒れてはいないが美しくもなかった。
花の一輪もない代わりに雑草が所々我が物顔で花壇を占拠し、昔プランターが置かれていたコンクリートは干乾びて皹が入っている部分もある。家の外壁はそう変わらないが、やはり住む人のいない家というのは朽ちるスピードが速いのか、生気もなくひっそりとしていた。
ガレージに車を入れてきた弘人が、ぼんやりと玄関先に立ち尽くす湊の隣に黙って立った。
古くなった門扉は毎日開けられないため錆が浮いているし、表札には砂埃がくっついている。それでも月に一度、弘人が業者を入れて管理してくれているからか、思ったよりもあちこち傷んではなさそうなのが救いだった。
十数年と空けていたわけではない。それなのに、襲ってくる感覚はそれくらいの期間放置していたような鋭さを帯びている。今にも、玄関を軋ませながら歳を取った両親が現れそうな、かと思えば時間が巻き戻っていくような、不思議な感慨に打ち据えられた。
「入ろう」
ぽんと肩に手を置かれて頷く。いつまでも外から眺めていてもどうしようもない。
そのまま肩を押されて先に入るよう促されたが、湊は頭を振って逆に弘人を先に押しやった。怪訝な弟の顔を見返すと、察したのだろう、一つ首肯して先に中へ入ってくれた。
「……」
一人になって、じ、と閉じられたドアを見つめる。
六年前、このドアを閉じたのは湊だった。まだ未成年だった弟を一人置き去りにして閉ざした扉は、今時を経て湊が手を掛けるのを待っている。
かつてこの扉を開けるのは、湊の義務だった。二人きりの家族を守るために、弟が不便な思いをしないように、できるだけ早く帰ってきて明かりを灯し、昼間静まり返っていた家に息を吹き込んで弟の帰りを待つ、それが湊の日常で自身に課した義務だった。家族として弟を愛していたからこそ、湊にはその義務を負う必要があった。
けれどその家族を捨てて家を出てみると、義務が意味を失った。もう誰もいない家に先に帰り着いている必要はない、待っていても帰ってくる弟はいない。好きな時に帰って好きなように過ごせばいい。
それが湊の心を軽くしたのは確かだったが、それ以上に降り積もっていく寂寞が酷く重かった。とろとろと足元を埋めていくそれに何度屈服しそうになったか知れない。その度に家を出た理由を刻み込むように言い聞かせていたから、そのうちに倫理と虚実に苛まれ息が上手くできなくなっていった。
それも、弘人と再会し、心と体を交換し合うことで終わった。そして今日、かつての義務は形を変えて、権利として湊の手に返された。
そうしてくれたのは弘人だった。たった一人の弟で、家族で、恋人。受け入れて受け入れられて、愛して愛されて。二人で作った権利をこの手に乗せて、今、家の中で湊が帰って来るのを待っていてくれている。
ドアノブに手を掛けても、緊張はしなかった。てらいなく開けると案の定、蝶番がきい、と軋む。その向こう、明るいフローリングに上がった弘人が、穏やかな微笑みで帰ってきた湊を見つめていた。
その笑みにじんわりと胸が痛む。
「ただいま……ひろ」
「うん、おかえり」
広げられた腕の中へ、ゆっくりと潜り込んだ。
弘人が玄関よりも一段高い床に立っているから、いつもよりも抱えられる位置が低くて、自分が子どもに戻ったような錯覚に陥る。埃っぽい家の中の空気に、馴染んだ弘人の体臭と懐かしい香りが混じって、湊は少し熱くなってしまった瞼を伏せた。
帰ってきた。
家に、赦された。
その感覚がどうしようもなく嬉しくて、同時に強すぎる安堵が突き抜けて戸惑う。
思っていた以上にここに囚われていたのだろう。帰還の儀式によって、長年足元に絡まっていたものが、ゆるゆると本来の流れに戻っていくようだった。
「父さんと母さんに、挨拶しよう」
「ん」
撫ぜられる頭が心地よくて、目を細めているとふわふわしたキスが降ってきた。
甘やかされている感触が面映くて体を離したら、弘人の手が追いかけてきた。その手に指を絡めて繋ぐ。甘ったるい雰囲気に背中をむずむずさせて、両親の仏壇を置いている部屋へ向かった。
息子たちのこんな姿を見たら、あの穏やかだった両親は何と言うだろう。同性ということには拘らないタイプの人たちだったが、さすがに兄弟でというのは眉を顰めるだろうか。
遺影の中の両親は幸せそうに笑っている。一人ずつではなくて、あえて二人一緒の写真を選んで、それを彼らの遺影として使った。本当に仲の良い人たちだった。死ぬ時も一緒だったのだから、遺影も一緒にしなくてはおかしい、幼心にそう思わせるくらい、互いへの愛に溢れた人たちだった。
できるならば、自分と弘人もこうありたい。いつか訪れる人生の終幕でも、こんな風に二人で笑い合って、慈しみ合っていたい。
そう在れるように努力ができる今を大切にして、望む未来を引き寄せる。父と母に手を合わせてそんなことを祈るのは不謹慎だろうか。
弟と共に在ることを両親に謝る代わりに、何遍でも礼を言った。
生んでくれてありがとう。海津の家で、弘人と会わせてくれてありがとう。一度は逃げ出したけれど、また廻り逢わせてくれてありがとう。
たくさんのありがとうで心を埋め尽くす湊の肩を、弘人が抱く。それだけで上がる熱も、伝わってくる少し速い弘人の鼓動も、両親に見て欲しかった。
たくさんの愛情を注いでくれた彼らに恥じないくらいに、大事に想う人ができたのだ、彼らの子どもたち二人ともが。
――――それを誇れなかったら、逆に叱られるに違いない。
そう苦笑した湊の独白に返事をするように、蝋燭の炎が軽やかに踊った。
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