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第30話

 八月十三日。  迎え盆の準備を済ませ、日が暮れる前に墓へ行った。  管理を頼んでいる寺の住職に挨拶を済ませ、丁寧に手入れされた墓に新しい花を飾る。  この墓に入っているのは両親だけだ。弘人はよく覚えていないのだが、両親の事故後双方の親戚とは縁を切ったらしい。母方の祖母だけは保護者として残ったが、彼女は死後そちらの親族に引き取られ、両親と同じ墓には入れられなかった。そんな経緯で家の仏壇も両親の分だけで、祖母の写真も飾りたい気持ちはあったものの結局そのままにしている。  粛然と手を合わせて帰ろうとしたら住職に呼ばれ、冷たい麦茶をご馳走になることになった。  墓地の横に立つ寺へ招かれ、座敷に腰を落ち着けると、若い坊主がてきぱきと麦茶とお茶請けを出してくれる。礼を言って汗を掻いているグラスを持つと、しっとりと手が濡れて気持ちよかった。 「ご兄弟が揃われるのは、何年振りですかねえ」  住職はほくほくとした笑顔が好々爺然とした、八十近い老人だ。両親が亡くなってからだから、十数年来の付き合いになる。 「和尚には本当にお世話になっています。久しぶりに訪れましたが、相変わらず墓も綺麗で。両親も喜んでいると思います」  頭を下げた湊に返礼し、住職は孫を見るような眼差しで二人を見遣った。穏やかさの中に知性を宿した老人の瞳は、昔からずっと変わらない。 「最後に湊くんがここを訪れたのは、大学を卒業してすぐでしたかね。あの頃は何だか今にも死にそうな顔をしていたから、ずっと気になっていたんですよ」 「ご心配をお掛けしまして……なのに不義理をしてしまって、申し訳ありませんでした」 「よいのですよ、こうして元気な顔も見られたことですし。それに、あなたの近況は弘人くんから聞いていたのでね、忙しくしていたことはよく承知していますよ」 「……弘人、から?」  兄と老人の和やかな雰囲気にほのぼのしていられたのはそこまでだった。  住職がぽろりと零した言葉に眉を寄せた湊に青褪める。  しまった。  口止めをしていなかった。墓に参る度に住職から兄の様子を訊かれ、興信所を使って知り得た情報をちょいちょい漏らしていたのだが。自分から逃げた兄が自分の目が届く範囲に帰ってくるわけがないと思っていたから、住職は完全にノーマークだった。 「ええ、おかげさまで、あなたが社会人になってからの活躍も知っていますよ。五年程前にあなたが載った雑誌があったでしょう。あれも弘人くんが教えてくれてね、ちゃんと切り抜いて、家に飾ってありますからね」 「そうですか、そんな前から……ありがとうございます」 「和尚ってば、ほんとのじいさんみたいだなー」  はははとその場を誤魔化す弘人の笑い声に照れる住職を、湊はにこにこ見つめている。  それ以上不審に思っているでもない様子に、気づかれないようにほっと息をつく。雑誌やらで消息を発見し、それを心配していた住職に見せていた――そう解釈してくれることを切に願う。  しかし、やはり兄はそこまで甘くはなかったし、鈍くもなかった。  しばらく住職との会話を楽しんで、夕暮れ前に車に乗り込んだ湊は、それまでの温和な表情を一変させて弘人に詰め寄った。 「どういうこと。偶然じゃないだろ、俺の近況って何。なんでそんなもん知ってたんだ」 「いや、ええと」 「いやもええとも要らないんだよ。この期に及んで躊躇ってんじゃない、すぱっと答えろ!」  ――――もうやだ、この人こわい。  自分がやってきたことを棚に上げて、弘人はハンドルに縋り付いた。なまじ顔が整い過ぎているだけに、真顔で詰問されたら本気でびびる。会社でもこんな風に部下を叱り付けているんじゃないだろうなと余計なことまで考えるが、そういえば他人には感情的にはならない人だと思い直して危機的状況なのにちょっと喜んだ。我ながら終わっていると思う。  胸倉を掴んで凄んでくる兄にはもう嘘も誤魔化しも通用しないだろう。容赦なく揺さぶられながら弘人は静かに観念した。 「すみません、お兄様が出て行ってすぐ、興信所使い始めました。社会人デビューから今年の四月までお兄様を影からひっそり見守っておりました」 「………お前、世間一般ではそれ何て言うか知ってるか?」  予想していたのだろう、ぴくりとも表情筋を動かさずに兄が言う。  ――――ええ、ようく知っていますとも。  開き直った弘人がにやりと笑った。 「ストーカーですが、それが?」 「ドヤ顔で言うことじゃねえんだよ愚弟!」 「あいたあっ!」  常になく崩れた湊の口調ににやついた口元を抓られた挙句殴られた。乱暴だ。  拳骨の落ちた頭を押さえて恨みがましげに兄を見ると、殴った兄の方が頭が痛いような顔をしてこめかみをぐりぐり揉んでいた。小声で何度も悪態をついている。  やりきれなさそうに皴が寄った眉間が色っぽくてつい触ったらまた殴られた。理不尽だ。  やがてシートにぐったり倒れ込んだ湊が動かなくなったのを確認して、シートベルトを着けてやる。バレてしまってバツは悪いが、弘人はとてもすっきりしていた。  大事な人への隠し事はやっぱりよくない。 「……隠し撮り写真とか、報告書とか、ちゃんと破棄しとけよ。というか燃やせ」  清々しく車を走らせ出した弟を横目で睨んでいた湊も、いつまでも過ぎたことをグチグチ言う気はないのか、一言だけ弘人に命じた。当然その命令は聞かないけれど。 「するわけないじゃない、どんだけ俺の安定剤だったと思ってんの」 「……ほんと、お前は俺が怒り難いように言うね」 「そりゃ、言葉は選んでますから」  朗らかに笑うと随分長い溜息で返された。  失礼な兄だ。 「何か俺、弟の育て方間違えたかも……」 「今更ですね~」  顔を覆ってしまった湊に適当な返事をして、ご機嫌で笑う。  バレた時にはどうなることかと思ったが、こんなにスッキリ爽快な気分になるのならもっと早くバラしておけばよかった。  そんなことを思いながら、弘人は緩やかにアクセルを踏み込んだ。

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