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第31話
昔よく買い物していたスーパーで食材を買い込んで家に帰ったら、湊はすぐに夕飯の支度に取り掛かった。
働かざる者食うべからずの精神を兄に叩き込まれた弘人も、いそいそと風呂を準備しに行く。
今日からの二泊三日、毎日湊といちゃつく予定だ。思えば、再会してから三日間もの長時間を共に過ごしたことはない。互いに忙しい身の上でそんな幸運に恵まれることなんてなかったのだから、この三日間はまさに神様から与えられたご褒美のようなものだ。
ならば隅から隅まで堪能しなければ罰が当たる。
ニヤニヤしながらバスタブを洗ってスイッチを押すと、長年使っていなかったわりにスムーズに音声が流れて湯が溜められていく。やはり、きちんとメンテナンスをしておいて良かった。放置していたら貴重な三日間は掃除と修理に費やされて、湊とのんびり過ごすなんて贅沢はできなかっただろう。
グッジョブ俺、と自分に一声かけて、調理中の兄の許へ戻る。ダイニングテーブルと向かい合うように造られたキッチンで、チェックのエプロンを翻しながら湊が忙しく立ち働いていた。
「あれ、そのエプロンどこにあったの? 見つけらんなかったのに、俺」
緑と黒のチェック柄エプロンは、湊が気に入ってずっと使っていたものだ。彼が家を出てから面影を求めて探してみたが見つからず、一緒に持って行ったのだと思っていた。
「そこの棚の一番上。別に隠してたわけじゃないから、ちゃんと見なかったんだろ」
「ええー、見たんだけどなあ、そこも。全然気付かなかったわ」
「何かの影にでもなってたんじゃないの」
「かなあ。納得いかないけど」
示された棚をじろじろ見ても分からないものは分からない。物を移動させた変化も感じ取れない。相変わらず変なところで気配を隠す人だ。
鍋を煮ている兄の背後に立つ。身長差はあまり感じないが、弘人の方が五センチ程高いため、斜め上から俯く湊の耳殻が見える。そこから繋がるシャープな頬の線と、白い首筋。ざっくりしたV字のサマーニットからはくっきり浮いた鎖骨が丸見えで、その先のなだらかな胸元はエプロンで隠されている。
舐めるように兄の輪郭を見ていたらむらっときた。
まだここで二人で暮らしていた頃を思い出す。あの頃もこんな風に作業に没頭する兄を眺めては欲情して、気付かれたくない一心で必死に堪えていた。
だけど今は、耐えなくていいのだ。欲望のままに行動しても嫌われるのではないかと怯えなくていい。あの頃に出来なかった色々を、これからはたっぷりと出来るのだ。
手始めにエプロンの脇からずぼっと手を突っ込んでみた。集中していたのだろう、両手で胸の先を探り当てて捻ったら短い悲鳴が上がった。
そして漫画のような頭突きを喰らう。
「~~~~いったぁ……っ」
「お、ま、え、はあ――――!」
「あっごめんなさい大人しくしてます、だからそのドロドロのオタマを鍋へ戻してくださいお願いします」
「あっち行ってろ!」
「はい………」
ダイニングへ追い立てられてしょんぼり椅子に座る。料理中にちょっかいを出したら危ないのは分かっていたが我慢できなかった。ぷりぷり怒った兄がそれでも冷えたビールを出してきてくれたから、有り難くプルタブを開ける。空酒は許さないとばかりにささっと出されたつまみが憎い。
「出来た嫁を貰った俺って勝ち組」
「アホか」
一人酔いしれていると呆れた声が突き刺さったが気にしない。
顔が自然と緩む。幸せすぎて怖い、どうしよう。
「ね、何作ってるの」
「夏野菜のラタトゥイユ。鶏肉入り」
できた、と深皿に取り分けて自分の分の缶ビールを片手に湊もテーブルにつく。
二、三品簡単に摘めるものも作っていたようで、食卓は一気に賑やかになった。
「あ、懐かしい。トマト料理だっけ? いただきます」
「はい、いただきます」
スプーンと箸の選択肢でスプーンを選び、オレンジ色の洋風煮物を早速掬う。程よいとろみの中に野菜と鶏の旨みが凝縮されて、濃厚なのにさっぱりとしていて食べやすい。
「う~ん美味しい。夏はカレー! て家が多いけど、やっぱり我が家はこれだね」
「トマトは偉大な食材だからね。おかげで夏バテ知らずだったろ?」
「うんうん、感謝してます、トマトにも兄さんにも。……ハッ!トマ――」
「トマト兄さんとか呼んだら口利かないから」
「……トって素敵だね!」
「そうだね、素敵だね」
にっこり微笑み合う。
ついでに缶ビールで意味もなく乾杯した。
煮物とつまみとビールで簡単な夕食を終えた頃に、のんびりと風呂が沸き上がった。
洗い物を引き受けて湊を先に風呂へ追いやる。二人分の食器は一瞬で洗い終わった。
リビングでテレビでも観ていようかと移動していたら、浴室からシャワーの音が聞こえてふと心が疼く。そういえば、こういう関係になってから湊と一緒に風呂に入ったことはあまりない。精々事後にぐったりして動けなくなった彼を洗うために一緒に入るくらいだ。子どもの頃にはよく兄の入浴中に無邪気に乱入していたが、その存在を意識し始めたらそんなことは出来なくなったから、もう随分長いことまともな裸の付き合いをしていなかった。
仲良し兄弟としては由々しき事態だ。兄の背中の一つや二つ、流しのプロの三助並に流せなくてどうする。
「よし」
そんなことでブラコンを名乗れると思うのか。否、名乗れまいと荷物から下着とパジャマを取り出して浴室へ向かう。
脱衣所と浴室を隔てる擦りガラスの向こうで、兄の肌色が透けて見えた。直接拝むのとはまた違う、覗き見ているような性質の悪い高揚感があって、これはこれでときめいた。
手早く服を脱いでガラス戸を開ける。突然流れ込んできた空気に驚いたのか、頭からシャワーを浴びていた湊が肩を揺らしてこちらを見た。
「お背中流しますよ、お兄さん」
「え、いらないけど」
「まあまあまあ」
「ちょ、狭い」
ずかずか中へ入ると迷惑そうな顔をされたがくじけない。
強引に湊を端へ寄せ、風呂椅子に座らせる。居心地悪そうに身動ぐ体に湯をかけて、有無を言わさずボディタオルを泡立て始めたら諦めたらしい。
大人しく正面を向いた兄の背中にぴたりとくっつく。濡れた生肌が弘人の肌と重なって、温もりと感触を伝えてくる。
その滑らかな肌の味わいを意識した途端むくりと起き上がった一物が湊の頭を小突き、嫌そうにチラ見された。
「お前なんでちょっと勃たせてんの、居た堪れないわ。くっつけるな馬鹿、お前も座れよ」
「そりゃあ不能じゃないもん、好きな人と裸で接近してたらこうなるさ。むしろなんで兄さん勃ってないの、俺不満なんだけど」
「覗くな。…っあ、ちょ、勃たせんなっ、もうほんとに馬鹿なの? 兄さんどうしたらいいの、もっかい育て直したいこの子」
「何その泣き言、かわいいね」
文句を言いながら喘ぐ湊に簡単に煽られる。ちょっとした悪戯のつもりだったのに火が点いてしまった。
仕方がない。風呂屋の三助は子宝に恵まれない夫婦のためにも一役買っていたというし、背中を流す用途は一先ず後にして、先にそちらの仕事からこなさせてもらおう。
腕の中で無防備に震える湊が悪い。
たとえ自分の手が彼の股間を弄くり倒していたとしても、痴態を晒して上手に誘う彼が悪いのだと、弘人はにんまりほくそ笑んだ。
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