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第38話
八月十五日。
送り盆を終え、後は荷物を車に詰め込むだけとなった昼過ぎ。今朝ポストに投函されていたチラシを何気なく見ていた湊がそわそわし出した。
何か言いたげにちらちら弘人を窺ってチラシを見返して、また弘人を見てチラシを見る。大体何を考えているか分かりはしたがあえて知らないフリを決め込んでいると、三十分も悩んだ末にようやく声をかけてきた。
「あのう」
「はい、何ですか」
やっと来たかと読んでいた台本を閉じる。その目の前にそっと差し出されたチラシは、案の定地元の花火大会のお知らせだった。
引き篭もり性質の弟と違って兄は案外アグレッシブで、こういったイベントが大好きだ。外に出ることを好むというより、非日常的に楽しめるものが好きなのだそうだ。
「帰宅時間をずらしませんか」
「花火は十九時からか。見終わってからじゃ帰り遅くなるよ?」
下手をしたら日付を跨ぐ。翌日から仕事なのに睡眠時間が短ければ辛いだろう。弘人がではなく、この三日間で体に多大な負担をかけた、湊が。
「屋台を夕食にして、少し花火見たらそれでいいから。友達とか呼ばないから。だから、いい?」
「……」
別に二人きりなら弘人にも否やはない。なのにすぐ快諾せずにわざと難しい顔をしてみせるのには訳がある。
弘人の沈黙を拒否と取った湊が、顔を曇らせた。
「ひろ、ダメかな」
八の字眉に下がった目尻、弱気に結ばれた口元。
その表情はまさにしょんぼり。
垂れた耳と尻尾が見えるような湊の姿に、心の中でガッツポーズを決めた。普段誰にも寄りかからない凛々しい人が自分にだけは甘えて、その反応に一喜一憂してくれる、そんな顔が大好きだ。
我ながら大概クズだと思う。当然始めから、珍しい湊のお願いを拒否する気などなかった。
湊の表情をたっぷりと堪能した弘人は、にっこり笑って頷く。
「いいよ、行こ」
ぱっと顔を上げた湊が笑う。嬉しそうな笑顔にこちらの顔まで緩む。可愛すぎてつらい。
そうと決まればまず形からと、湊は意気揚々と物置部屋へ突っ込んで行った。恐らく浴衣やら下駄やらを掘り出してくるのだろう。そんなものを着用されたら祭りどころではなくなりそうなものなのに。
準備を任せて再び台本を開いていると、しばらくごそごそしていた湊が何やら大きな箱を抱えて戻ってきた。
「弘人、すっかり忘れてた。やっぱりこれ、曾祖父さんのだわ」
「ん?」
テーブルに置かれた箱の曽祖父の名が彫られた蓋を取ると、古い物独特の匂いがした。
枯れた木を擦り合わせたような、少し黴臭い匂い。箱自体は上等な白木で出来ていて、濃い紫の天鵞絨が中身をきっちりと包んでいた。
それを取り除く兄の手元を覗き込む。布の下からいつも撮影所で見る品々が現れ、弘人は小さく歓声を上げた。
この家に帰る口実に使った、曽祖父の遺品だ。
「おおー、煙管かっこいい!」
「ね。何だこれ、木の……肘置き? にしては小さいか」
「うわ、これってもしかして帝国大の徽章? 東京だよね? ひいじいさんすげえ!」
「いやちょっとお前、これ銀時計もあるけど、え、何者?」
「うわー……銀時計組ってやつ? そこまでいくと普通に引くわ……」
「な……」
弘人も湊も知能指数は高めだが、曽祖父は異常レベルだったらしい。箱の中からぼろぼろ出てきた偉業の証を、二人は呆れながらテーブルに並べた。
達筆でタイトルの書かれた文集は同人誌のようだ。開いてみると、何とも文学的な文章が流れるように綴られている。堅苦しいものかと思えば所々に落書きらしきものも描かれていて、その犯人が曽祖父なのか同人誌を共に作った友人たちなのかは分からないが、当時の騒ぎが目に浮かぶようだった。
手のひらよりもやや大きめの額に入った写真も発見した。学生服姿の男たちが真面目たらしい顔で写っている。真ん中で恩賜の銀時計を膝に置いて椅子に腰掛けている人物が、自分たちの曽祖父なのだろう。
正面を向いているその顔を見て、二人は同時に絶句した。
「え……」
「マジか……」
中央の青年は、金ボタンの詰襟を妙に格好よく着こなしていた。きっと明るい性格だったのだろう、表情からそれが滲み出ている。
その顔立ちは曾孫たちに良く似ていた。どちらかといえばより湊に似ているが、雰囲気や体格は弘人の方が近い。同じ時代に生きていたら三兄弟と思われてもおかしくないぐらい二人にそっくりだった。
「すげえ、遺伝子ってすげえ」
「お、制服と帽子もある。弘人、ちょっと着てみて。サイズ的にお前だこれ」
「コスプレっぽいなー」
詰襟の学生服といえば中学時代を思い出す。明らかに中学生のサイズではないそれを肩から羽織って、金ボタンを留めていく。ズボンまで履くと面白いほどぴったりだった。
百八十を越す長身の弘人と同じ体格だったとしたら、この時代ではさぞや目立っていただろう。
「どう?」
最後に制帽と襟章をつけて姿勢を正す。
大正の学生に成り済ましていく様を座り込んだままぼんやり見上げていた兄が、ついと眼を逸らした。
そしてごにょごにょと。
「まあまあじゃないの」
なんて言っているのを見て顔がにやけた。
兄のその癖は知っている。
「なに? ちゃんと見てよ、せっかく着たんだから」
逸らされた視線の先に回り込んで顔を覗き込むと、反対側にまた逸らされた。肌が白いから赤くなっていく様子がよく見える。
「みーなーとーさーん」
「う……」
本気で心が奪われた時、湊はそれを直視しなくなる。見ていたら減るとでも思っているのかは知らないが、酷く恥ずかしそうに、照れ臭そうに眼を逸らす。そうなると放っておいて欲しがるが、そんな表情を向けられた側としては逆効果だ。何としてもこちらを向かせて、その口でどういう心境か語らせたくて堪らなくなる。
意地悪くニタニタ笑っていたら胸を小突かれた。縮めた距離を広げられそうになったが、そうはいかない。正面に座り込んで伸ばした脚で兄を囲い込み、ついでに腰にも腕を回して顔を覗き込んだら観念したようだ。
弱り果てた瞳がよたよたと見返してくる。
「いや、ちょっと、お前が中学生だった頃を思い出して」
「……俺が中坊だった頃?」
てっきり制服姿に見惚れたのだと思っていたから、その返答にはきょとんとしてしまった。
ナチュラルにナルシストぶりを発揮した弘人に、湊は訥々と告白する。
「俺と背が並んだの、中三の時だったろ。思えば、あのくらいからお前のこと意識してたのかもって……思ったら」
物凄く恥ずかしくなった。と。
言葉通り頬を赤くしての告白に、弘人の頬もばっと赤く染まった。
――――何だそれ。
「……ちょっと、その辺詳しく聞きたいんだけど」
凄く、物凄く、照れるのだけれど。
真顔で顔を赤くした弘人を直視できないまま、湊も益々赤くなった。首筋までほんのり染まっていて目に毒だ。
至近距離で赤面してもじもじし合う成年男子たちなど正視に耐えない気持ち悪さだろうに、互いに互いの常にない様子を見てさらに照れた。ギャラリーがいなくて本当に良かった。
「ねえ、教えてよ。どんな感じで俺のこと、意識し出したの」
抱いた腰を引き寄せてより密着する。泳ぎまくっている兄の視線も引き寄せて、甘やかに唇を舐めた。開きかけたそこがきゅっと結ばれ、居た堪れなさそうに胸を押される。
「……今日は時間ないから、また今度、な」
機会があれば、なんて付け加えて逃げる唇をもう一度舐めて、少し埃臭い肩口に顔を埋めた。その拍子に制帽が転がり落ちたが、どちらもそんなことに気を散らしていられない。
――――ごめん、ひいじいさん。
心の中で軽く謝り、埃の匂いの下から立ち上る兄の香りを吸い込む。
心も体も落ち着くのにざわつかせる香りが、昔はこの家の中に当たり前にあって。その香り一つにどぎまぎさせられていた日々が、あの頃の兄にもあったのかもしれないなんて。
そんな可能性を思うだけで胸が滾る。何とも現金なことだがたったそれだけで、苦しくて仕方が無かったあの頃がとても大切なものに思えてくる。
やはり帰って来て良かった。
口を割らせるのはまた今度の楽しみに取っておくことにして、弘人は冷めない頬を同じ温度の首筋にぐりぐり擦り付けた。
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