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第39話
花火大会の会場は、実家から徒歩二十分の場所にある河川敷だった。
目的地へ向かうまでの間、深緑と濃紺の浴衣で連れ立って歩く兄弟が人目につかないはずもなく。良くも悪くも人から好奇の視線を向けられることに慣れている二人は頓着していなかったのだが、そうも言ってはいられない事実を先程の一幕で思い出した。
河川敷へ向かうにつれて多くなる人の中に紛れて、駆け足だった足をようやく緩める。だいぶ後方では彼らに声をかけてきた女性たちの興奮した声が響いていた。
周りが何事かと振り返る前に、そそくさと水神を祀る神社の境内へ逃れる。
近くに人気のない場所があって本当によかった。
溝に砂利の敷かれた産道を避けて、林立する木立に隠れる。少し離れた大通りの喧騒が遠くなって、二人同時に安堵の息を吐いた。
「……俺たち忘れてたよね」
「ああ。お前、一応有名人だったよなそう言えば」
「ごめん……」
項垂れた頭をぽんと叩かれた。慰められて余計に申し訳なくなる。
多くの人が集う祭りなのに、自分の職業をうっかり忘れていた弘人は素顔を晒して歩いていた。完全に兄と二人で暮らしていた学生時分に戻っていて、警戒心がなくなっていたのだ。その結果どうなったかなど言うまでも無い。
気づかれて声をかけられ、否定したけれど追われてここまで逃げて来た。花火が上がり始めるまでまだ間はあるが、再びあの雑踏へ紛れ込むのには無理がある。
困った。
顔を覆って大きな溜息をついている弘人の傍で、通りを窺っていた湊が何かを見つけたらしく、ここにいろと一言だけ残して飛び出していった。
翻った深緑の浴衣の裾から覗く足首が艶めかしくて目を奪われる。間違いなく男の物だというのに、なぜ彼はどこもかしこも弘人の劣情を刺激するのだろう。
一人きりになった境内で、涼しい場所を陣取ってしゃがみ込んだ。今更職業で後悔する日が来るなんて思わなかった。せっかく兄が楽しみにしていたのに、これでは台無しになってしまう。
高校入学と同時にモデル業を始めたのは、単純に家計を助けたかったからだ。親が遺した金があるとは言っても、無限ではない。それは二人の進学のために遣うべきものであって、生活費は出来る限り自分たちで稼ぐ必要があった。だから兄も早くからアルバイトと学業を両立させていたし、その姿を見ていた弘人も義務教育を終えたら当然そうする予定だった。
十代向けの雑誌モデルは、街中でスカウトされて始めた。あれこれ探したアルバイトの中で一番実入りがよかったからというだけの理由で始めたものだったが、それがいつしかマネージャーがつくまでになり、そのマネージャーの薦めと当時の弘人の個人的な目的もあって俳優業へ転身となり、今に至った。とんとん拍子に進んだこの経緯はとても幸運だったようだが、こんな風に祭り一つ満足に兄と歩けなくなるのなら考え物だ。
しかし、俳優業を続けてそれなりに名が通っていたために、晴れて兄と再会できたのだから、一時の感情だけで恨むわけにもいかない。
もう一度溜息をつく。
しゃがみ込んだまま足元の小石を転がして腐っていたら、湊が足早に戻ってきた。手には丸くて平べったい板のような物を持っている。
「おかえり。それなに?」
「そこの屋台で買ってきた。目元だけでも被ってな」
「……お面?」
それは狐を可愛らしくデフォルメした面だった。湊の手にはもう一つ、コミカルになった狸が握られている。
なるほど、確かにこれなら周囲に怪しまれずに顔を隠して歩ける。いい年をした男二人が可愛らしい面をつけて歩いている不気味さに目を瞑れば。
「ありがとう。でも何で兄さんまで? 確かに俺たち似てるけど、雰囲気全然違うから間違えられることもないでしょ」
そうなのだ。顔立ちやスタイルは似通った部分が多く、並べば兄弟だと一目で分かるが、昔からどちらかがどちらかに間違われることはなかった。共通の知り合いたち曰く、醸し出すものがそれぞれで違い過ぎていて、間違える余地が無いのだそうだ。
弘人の素朴な疑問に、湊は狸の面を被りながら微笑った。
「一人で被るより、恥ずかしくないだろ」
「……兄さん……」
ぽんと寄越された彼の心に、言葉を失くす。
この広い世の中に、一緒に恥まで被ってくれる人がどれ程いるのか。
時に湊の愛は無償で提供される。弘人を守る立場だった頃の名残なのか、それが湊の性質なのか分からないが、多分どちらも正解なのだろう。
狸に顔面を覆われて、結構息苦しいんだななんて笑っているくぐもった声に、心がさらさら撫でられていく。
「…………」
「わっ」
黙って狐を被り、兄の腕を引いたら容易く転げてきた。狭くなった視界の中では突然の力の流れに対応できなかったらしい。
しゃがんでいる弘人に覆い被さるようにして体を支えた湊を抱き締めて、緊張した脇腹に頭を押し付けた。
「好きだ」
外での密着を嫌って抗っていた湊の動きが、ぴたりと止まる。
息を呑んだ音を頭上で聞きながらも、一度流れ出した言葉は堰を切ったように止まらなかった。
「好きだ」
「……」
「好きなんだ」
「…………」
「凄く、好き」
「ああ……」
「……兄さんが、俺の全部なんだ」
「……うん」
「俺も、兄さんの全部になりたいんだ」
「――知ってるよ」
その想いの強さも、それゆえの存在の危うさも。
知っていて受け止めたのだと、抗っていた兄の腕が背に回されて、狐面の中の温度が上がる。
情けない顔を隠して伝えた気持ちは、あの日以来初めて使った言葉になって湊に掬い上げられた。
あの時は見捨てられた言葉が。
「兄さん……キスして」
掠れた声でねだったら、楽しそうに笑っている狸と狐の面が、こつんと硬い音を立ててぶつかった。
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