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第41話

 弘人からの連絡が完全に途絶えて二週間が過ぎた。  その間、何度メールを送っても返信はなく、電話をしても電源が入っていないという無機質なアナウンスに繋がるだけで、弘人からの反応は一切なかった。  始めの内は忙しいのだろうと放っておいたが、ここまで一本の連絡すら取れない事態は初めてで、日が経つにつれ何らかの異常が起こっているのではないかと否が応にも緊張は高まっていった。  折悪しく、佳境に入ったプロジェクトのおかげで湊の方も身動きが取れない。弟と連絡が取れないからと勝手に会社を飛び出すわけにもいかず、じりじりと神経を磨り減らす日々が続いていた。  もしも弟の身に事件か事故か、何らかの緊急事態が起こっているのならば、マネージャーとの面識もあるのだし家族である湊に連絡があるはずだ。それが無いということは、そう逼迫した事にはなっていないはず。しかし、だったらなぜ弘人は連絡をしないのか。何らかの事情があって出来ないにしても、メール一本送れない事情とは何だ。  湊はもうずっと、そんな風にストレスだけが溜まる堂々巡りを繰り返していた。  それから更に二週間が過ぎた。  これで一ヶ月もの間、弘人の安否が確認できていないことになる。  碌に眠れない日々が続いていた。プロジェクトは終わりが見えてきて、後は最後の調整をこなせば現場に渡せるレベルまで仕上がっている。その手前の段階からが難しくはあるが、ここまでくればもうある程度は大丈夫だろう。  その安堵もあってか、束の間の休息で度々夢を見るようになった。  懐かしい夢だ。少し前まではよく見ていた夢。  弘人を拒絶して、捨てて、逃げ出した時の夢。  今、その夢で拒絶されている人物は湊に変わっていた。弘人に伸ばした手はかわされて、弘人の瞳は逸らされて、向けられた表情は酷く冷たい。彼が心を失くした時の顔のようで、短い夢から醒めた湊の胸は痛い程張り詰めていた。  そんな朝が続いて、心身共に酷く疲れ始めている。  その日、報告を上げるために訪れた常務室に専務までいて、居心地の悪い思いをしながら湊は恒例の定期報告を行った。元々このプロジェクトは常務の梃入れから始まったもので、それがなぜ新人に毛が生えた程度だった自分の下へまで降りてきたのか今でも謎だ。  歴史があるわりに若い層で固められた瀬逗商事は、トップから役員までが三十代から四十代と、同程度の規模の他社に比べて比較的若い世代が運営している。その辺りが湊のようなイレギュラーを生み出す要因となっているようだった。  渡した書面を覗き込んで、湊の説明にうんうんと頷いている常務と専務は確か従兄弟同士だったはず。親族経営の瀬逗は、気軽に社長とその身内たちが所々で和やかに談笑していて、社員にとっては見慣れた風景だ。それでおかしな馴れ合いが起きないのが、現社長の腕前なのだろう。  そんなことを考えながら一通り質疑応答まで終えると、上司二名は意味ありげに目を見交わした。その瞬間変わった空気に嫌な予感が走る。 「ところで海津君」 「はい」 「弟君は元気かい?」 「……弟、ですか」  なぜここで弟の話題が出るのだろう。  戸惑う湊の様子をじっと見て、常務は専務の顔を見た。常務よりも一つ二つ年上の専務は、難しい顔を作って腕を組む。 「いやね、実は今朝、私たちでCMの御礼を弟君の事務所に持って行ったんだけど、たまたまそこで少しおかしな話を聞いてね」  担当者ではなくなぜわざわざこの二人が行くのかと思いはしたが、そういえばフリーダムな人たちだったと口を噤んだ。どうせ自分をダシに、日頃関わりのない世界を満喫しにでも行ったのだろう。 「どうもね、弟君の撮影現場でアクシデントがあったらしくてね」 「スタッフの人たちが口走っていたことが、ちょっとね」  躊躇いがちの言葉がもどかしくて、つい眉を寄せた部下に、常務は低い声音で続けた。 「弟君が――――」  耳に届いたその言葉に、全身の血が下がった気がした。  フロアに戻ってきた途端に帰り支度を始めた湊に、部下たちがざわめいた。  まだ終業まで少し間がある上に、プロジェクトの追い込みで連日残業が当たり前の時期だ。 「部長、もう帰られるんですか? 何か……」 「悪い、今日からしばらく抜ける。後は最終調整だけだから、状況はメールで送ってくれ」 「え、ちょ、部長!?」  訳も分からず引き止める小野瀬を振り切って、戸惑う部内を見渡す。こんな形で仕事を放り出すことになるなんて、予想外だった。  不安げな部下たちに頭を下げた。ざわついていたフロアがしんと静まる。 「すまない。私事で一時的に抜けるが、その間は代わりに常務に入って頂く。常務の指示に従って、しばらく皆で頑張って欲しい」  無責任極まりないことを言ってすまないと呟くと、固唾を呑んで聞いていた皆があちらこちらでほう、と息をついた。 「部長、頭を上げてください」  苦笑した小野瀬に促されて顔を上げる。覚悟していた非難の眼差しはどこにもなく、皆が皆苦笑と共に不思議な決意を秘めた視線を返してきた。  その意味を計り兼ねて戸惑う。 「いつも、ここにいる誰よりも働いてた部長が、意味もなく仕事を放り出すなんて誰も思ってません。それにそんな顔色を見せられたら、反対なんかできませんって」 「そうですよ部長。どのぐらいかかるのかは知りませんけど、用事が終わったら戻ってきてくれるんでしょう? 早いとこお願いしますよ」 「留守はしっかり預かりますから! 常務にご迷惑はお掛けしません」  口々に向けられる頼もしい言葉と部下たちの表情に、湊は救われる気がした。  もう一度しっかりと頭を下げて感謝を伝え、フロアを飛び出す。  普段冷静な人間が焦りを隠さずに走り出す姿は余程目立つようで、通り過ぎる社員たちは呆気に取られてその後ろ姿を見送った。

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