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第43話

 電話を切って、以前番号を交換しておいて良かったと、平坂はほっと肩の力を抜いた。  今まで比較的問題のなかった弘人がここに来て取った行動は、少なからず平坂を動揺させていた。  全ては村入りしたあの日から始まった騒動は、今は一応の落ち着きを見せている。解決方面での落ち着きではなく、膠着という意味合いでの落ち着きではあるが。  丸一日行方不明になった弘人が、村の指導者の家で保護されているのを発見したスタッフが泡を食って報告してきてから、一ヶ月。  その内の三週間は村長宅から通う形で現場に現れていた弘人が、一週間前から全く外に出て来なくなった。異常を感じて騒ぎ出す寸前、平素と変わらない様子で顔を出した弘人が事件性は無いとその口で語ったが、到底信じられるはずもない。だがすぐに引っ込んだ彼を、阻んでくる村長たちを押しやってまで追いかけることも出来ずに、結局毎日屋敷を訪ねて門前払いを食らわされる日々を余儀なくされていた。  その間、主役抜きの場面を撮ることで何とか撮影スケジュールは進んでいるが、それもそろそろ限界だろう。  意味もなくこんなことをする男ではないと皆が理解している。それ故に、即降板ということにはせずに待っていてくれている関係者たちに頭を下げて、何とか持ち堪えていたのだが。  どうやらその甲斐があった。たった今掛かってきた電話に、光るような希望が見えた。  そしてなぜ、自分はその手段を思いつかなかったのか。この世に問答無用で弘人を動かせる人がいるならば、それはただ一人、彼が溺愛している兄だけだろうに。もっと早く思いついて彼と連絡を取っていれば、こんなにも深刻化しなかったかもしれないのに。  兎にも角にも、これは紛れも無い朗報だ。湊が到着すれば、すぐに元通りとは行かずとも多少は事態も動くはず。それもきっと、良い方向へ。  自分が担当する俳優のことなのに他力本願で申し訳なくは思うが、ここは身内の人にお願いしようと、平坂はたった今手に入れた打開策を持って監督の許へ足を向けた。  古びた日本家屋の奥座敷に、弘人は静かに座していた。  この家に逗留して一ヶ月になる。仕事を放棄するつもりなどなかったのに、今居る奥座敷に部屋を移されてから、もう一週間外に出ていなかった。  交渉のために村入りする監督に連れられて、挨拶がてら村に訪れたあの時から、小さな違和感は付き纏っていた。  山の奥にひっそりと造られた村は、和と洋の入り混じった奇妙な村だった。丘から見下ろせば一望できる小さな面積の中で、地面に石畳を敷きレンガで家を建てている。かと思えば昔ながらの藁葺き屋根が赤茶色の建物の間に見えたりと、整然なようで無秩序な造りは、子どもの積み木遊びを連想させる危ういバランスで保たれていた。  村に入って弘人が感じた、背中がむずむずするような違和感は、和洋入り混じったその造りだけに起因したものではない。村長宅を訪れた異邦人たちを物見高く見物に来た村人たちが、皆一様に明るい色の髪と眼を持っていたのも要因の一つだし、その村人たちが弘人を見て驚愕の表情を浮かべていたのもまた妙だった。ただ芸能人を見た、というだけでは理由の付かない反応に、嫌な予感を覚えたものだ。  そしてその嫌な予感は現実となって、今、弘人を拘束している。監督と共に訪れた村長の家で、撮影許可を貰った後に弘人だけが呼び止められ、ある質問を投げかけられた。恐らくそれにうっかり素直に返答したが故に発生した、丸一日分の空白。  その後の薄気味の悪い状況を思って、弘人の眉が寄った。身動いだ拍子にじゃらじゃらと音がなる。煩い自身の腰元に視線を落として、更にきつく眉を顰めた。  弘人を繋ぐ太く長い鎖が、ぎらりと鈍く光る。 「はあ……何でこんなことに……」  ついつい愚痴っぽくなっても仕方がないだろう。こんな漫画か映画のような状況が現実に起こるなんて、なかなか無い。そのなかなか無い貴重な経験をしていると思えばこれも芸の肥やしにはなるが、如何せん今現在進行形で色々な人に迷惑をかけていることを思えばそう暢気にもしていられなかった。  窓は明り取り用の小さな隙間しか無く、唯一の出入り口には扉が存在しない代わりに頑丈な格子が嵌められている。所謂座敷牢というものに放り込まれているわけだが、弘人の扱いは罪人ではなく客人、それも牢に閉じ込められている以外は最上級のもてなされっぷりで、そんな扱いを受ければ受ける程部屋と待遇のちぐはぐさが余計に際立って気持ち悪かった。  日差しも満足に入らない部屋で鎖に繋がれて、毎日何をしているかと言えばよく分からない。とりあえず明り取りの隙間から太陽光が消えたら壁に一本ずつ線を引いて正の字を刻んで、何日閉じ込められているのか数えているくらいだ。後は入れ替わり立ち替わり現れる人々の話しを聞いて、否定して、拒否して、説得して、の繰り返し。  一ヶ月前、気がついたらこの家で寝かされていた。その時は普通の座敷だったが、目覚めると村長一家にぐるりと囲まれていて心底驚いた。目覚める前の記憶はなぜか曖昧で、村の井戸付近をうろうろしていたような気がするが、定かではない。井戸で誰かに声を掛けられたような気もするが、それが正しい記憶なのか自信もない。もしや井戸に落ちて気を失っていたのかと思ったが、体は特に痛い所もないし、村長たちに訊いても井戸の近くで倒れていたと言うだけで納得のいく答えは返ってこなかった。  自分に何が起こったのか分からなくて悩んでいる内に、妙に親切にされて勧められるままに一人で村長宅への滞在を決めてしまったのがきっと運の尽きで。毎日過ぎる程に良くしてもらったが、一日が過ぎる毎に体が重くなり、時折記憶に空白が生まれるようになって、三週間も経つ頃にようやく何かおかしいと気付いた。とりあえず屋敷から離れるために他の皆が宿泊している公民館のような施設へ行こうとしたところを捕らえられて繋がれ、今に至る。  しかし、誰にも何も言わずにこんな場所に監禁されてしまったのだから、そろそろマネージャーなり監督なり、何かしら動いていても良さそうなものだが。誰かが迎えに来たとも聞かないし、警察が動いている気配もない。もしもそんな動きがあれば、異常としか言い様のない要求を突きつけて来る村長たちがもう少し焦った様子を見せていてもおかしくはないだろうに。  そう、入れ替わり立ち替わり捕らえた弘人の許へやってくる村長一家は、弘人にとっては異常としか思えない要求を携えて訪って来ていた。  それは食事の時間だったり、ふらりと立ち寄った時だったりとタイミングはまちまちだが、言ってくることは皆同じだ。  村長一家の要求は時代錯誤も甚だしいし、何よりもそんな茶番に付き合う意思が弘人には無い。何度もそう言って突き放しているのに、彼らは諦めない。弘人が肯くまで解放する気はないとはっきりと言われているが、だからと言ってはい分かりましたなんて大人しく従える訳がない。  なぜならば、弘人には何よりも大切な仕事がある。彼らの要求を呑んだらそれを手放して、この村に骨を埋めなければならないのだ。一生の仕事だと思っているのだから、そう易々とそれを捨てることなどできない。  ――――そう。自分が家族も恋人もいない寂しい独身男で、仕事以外に弘人を引き留めるものが、何もなかったとしても。 「……あれ?」  何だかくらりとした。  また倦怠感と重たい頭痛がじわじわ降りてくる。これが始まると断続的に気を失うようで、いつも気がついたら布団に寝かされていて、本当に気味が悪い。  村長たちはとても良く面倒を見てくれていて、こんな夢遊病のようなおかしな病気を発症してしまった自分を、一家総出で見守ってくれているのに、これ以上迷惑をかける訳には――――。 「……あ、れ……?」  何か微妙に、噛み合わない気持ち悪さを感じて首を傾げた。  重たい頭に引っ掛かった違和感は小さすぎて、手繰り寄せる前にするすると逃げて行ってしまう。  捉まえるために伸ばした腕を掻い潜り、するりするりと、それは上手に。 「――…っ、…………」  気怠い体が畳に沈んでいく感触を最後に、弘人の意識はぷつりと途切れた。  追いかけようとしたのは、大切な、とても大切な何かだったような、気がしたのだけれど。

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