45 / 76

第45話

 格子の向こうから微かに響いた音で、弘人は畳に押し付けていた顔をのっそりと起こした。  周りを見回して自分が寝ていた位置を確認する。今までの心神喪失後のように最後に見た場所から移動はしておらず、覚えているままの位置で目覚められたようだ。短時間で意識を取り戻せたのだろう。  その事にほっとして、自分を覚醒させた音が聞こえた方向へ顔を向けた。  すっかり暗くなった部屋の、格子の向こう。忍ばせた足音が近づいてくる。また村長一家の誰かが来たのだろうか、その割には辺りを憚るような足音だが。  耳を済ませて待っていたら、格子に取り付けられた灯りに女が一人、照らし出された。  緩いウェーブのかかった長い髪が、オレンジ色の灯りを反射して綺麗な橙に染まっている。いつも美しく結われているのに、どうしたのだろう。今日はやけに乱れているし、茫然と強張った顔の色も悪い。具合でも悪いのだろうか。  常にない彼女の様子に心配になった弘人は、立ち上がって格子まで歩いて行った。一歩進むごとに煩く引き摺る鎖が邪魔だが仕方がない。  これは病気の自分がふらふらと出歩いて、危険な目に遭わないための処置なのだから。何度も何度もそう言われたのだから。  ――――誰に?  そんなのは決まっている。弘人をここに置いてくれて、面倒を見てくれて、厄介な病気に親身になって付き合ってくれている、とても親切な人たちにだ。  ――――それは誰?  誰ってそれは。  頭の中の問いかけに返事をすると、その声はどこか満足そうに沈黙した。馴染んでしまった声が誰のものかなんて疑問にも思わず、弘人は立ち竦んでいる女の前の格子を掴む。 「南方さん。大丈夫?」  よく見れば震えている。不自然に揺れる体の制御が出来ていない。今にも崩れそうな様子なのに、彼女はなぜか一心に弘人を繋いでいる鎖を見つめていて、真っ白なその顔を痛々しく歪ませていた。 「あ……か、かい、づさ……。ど、して、ここまで…………」  振り絞った声はか細くて、酷く頼りない。  なぜ彼女がそんなに悲壮な表情を浮かべるのかも分からずに首を傾げた弘人の顔を見て、彼女はただでさえ大きく見開いていた瞳を限界まで瞠らせた。その只ならぬ動揺を落ち着かせようと隙間から伸ばした手を弾き飛ばす勢いで、白い手がガッと格子を掴む。  長い歳月で出来た木肌のささくれが南方の手のひらに突き刺さったが、込み上げてきた涙がそんな痛みも押し流した。  やっとの思いで忍び込んだ実家の奥で、彼は鎖に繋がれていた。部屋のあちこちに歩いては行けるようだが決してこの格子より外には出られない長さの鎖に。まるで罪人のように。  けれどそれ以上に衝撃だったのは、彼のその穏やかな表情だった。  こんな理不尽な扱いに憤ることなく。突然現れた自分を至極当たり前に、まるでつい昨日まで一緒に働いていたように見つめる瞳が。僅かに焦点の合っていない瞳が。本来の彼が浮かべるべき理知の光が消えた瞳が。  格子を掴んだ南方の手ががくがくと震えだす。それは恐怖だった。凄まじいまでのおぞましい感情が背筋を覆い尽くしていく。  家族は。彼女の家族は、本気で。  ――――本気で人ひとりを、壊そうとしていた。 「………め、なさ……」 「南方さん?」  突然滂沱として涙を流し始めた南方を、弘人は酷く困惑した様子で窺っていた。清潔に整えられた衣服の裾を引っ張って、間を隔てる格子越しにこちらの涙を拭こうとしてくる。  その優しい仕草すら申し訳なくて哀しくて、彼女の涙は嵩を増した。 「ご、めんなさ……ごめん、なさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんな……さ、い…………」  ずるずると泣き崩れる彼女にどう声をかければいいのか分からずに、弘人も一緒になってしゃがみ込む。  冷たい床に座り込んだ彼女の足が傷だらけで、血が所々滲んでいて痛そうだった。どうしてそんな怪我を負っているのだろう。撮影はまだ続くのに、そんな足で立っていられるのだろうか。  見当違いな心配をしている弘人をぐしゃぐしゃの顔で見上げて、南方は引き攣る咽喉を開いた。彼がこんな状態に陥ってしまったのは、元はと言えば自分のせいなのだ。泣いて許しを乞うている場合ではない。  まだ間に合うはずだ。まだ会話が出来る。まだ彼は動ける。瞳に光が戻れば、まだ戻って来られるはずだ、こちら側へ。 「かい、づさん。ここで出される食事は、もう、食べちゃだめです。できれば、水の一滴も飲まないで」 「……どうして?」  格子を掴む手に更に力が入る。棘が奥へ入り込む。震えは止まらない。  自分たちの罪を、白日の下に晒す、その行為が恐ろしいと思うこの心が恐ろしかった。 「――口に入れるものの中に、少しずつ、人の心を壊す薬が、仕込まれてるはずなんです。それはあなたを治すものじゃない。少しなら、すぐに抜けるし問題ありませんが、毎日三食分、長期間体に蓄積していったら」 「いったら……?」 「記憶障害が起こって、最終的には、廃人になります」  囁くような声が強く言い切る。  記憶障害、と呟いて、弘人は無意識に口元を覆った。何だろうか、何か言葉が口をついて出そうになったが、何と言おうとしたのか分からない。口がもぞもぞする。  その様子をじっと見据えて、南方は確かめる声音で彼を呼んだ。 「忘れていることはありませんか」  ――――思い出せないことはありませんか。  ――――ふとした時、思うはずのことを思えなかったことはありませんか。持とうとした感情が、消えていったことはありませんか。  ――――考えていたはずのことが、気が付いたらすり替わっていたことは、ありませんか。 「……っ、ま、待って……」  重ねられる問いかけに、頭が追いつかない。  追いつかないことに、弘人は愕然とした。  自分はこんなに鈍重だっただろうか。こんなに物を考えるのが、理解するのが遅かっただろうか。  明らかに南方の言葉に理解が追いついていけない。思い出せないこと、忘れていること。忘れていたとして、それはもうすでに忘却してしまっているのだから簡単に思い出せはしないのだろうけれど。  思えば、色々な所で違和感や何か変だと思うことはあった。でもそれはすぐに答えが与えられたり、気にならなくなったりして、その内何を思っていたのか忘れることが多くて。特に不自由は感じなかったから追求しなかったが、南方が言っているのはそういうことなのだろうか。  そこまで考えて、不意に引っかかった。  …………答えが、与えられる?  一体誰に。  呆然と目を見開いた弘人の変化を欠片も見逃すまいと、南方は瞬きも惜しんだ。  どうやら遅すぎることはなかったようで、俄かに安堵が胸に落ちる。この村独特の薬剤にどっぷり浸かってしまっていたら、こんな反応は得られなかったはずだ。  しかし、そんなささやかな安堵もすぐに霧散した。伝えなければと南方が口にした名に、弘人がきょとんと瞬いたから。 「……え、と……南方さん、ごめん。俺、その湊って人、知らないし……迎えに来られても………」  知らない人と一緒には帰れない、と途方に暮れた瞳で呟かれて、南方の心臓が凍った。  そして弘人に使用されたであろう薬剤の、使い方次第で毒にも薬にもなる効力を思い出す。  もしもそうなら。そうだ、もしも彼を、彼らが求め続けた人の代わりにするつもりなら。全くの廃人にしてしまっては意味がないのだ。  だから彼らは――彼女の身内は、この村の指導者の一族は、念入りに一ヶ月もの時間をかけて、その薬を与え続けたのだ。  彼に、外の世界に一片の未練も残させないために。  ――――心を占める割合が大きいものを、忘れさせたのだ。 「……っ、海津さんっ!」  だめだ。そんなのはだめだ。  誰であっても、自分たちの妄執のために他人の核となる場所を奪うなど、あってはならない。  そんなこと、この村が焦がれ続けたあの人だって、絶対に許さないに違いないのに。  そんなことも分からなくなってしまったのか。それとももう、分かっていて尚ただ焦がれるだけの現状に耐えられなくなったのか。  目の前に如何なる時にも縋り続けた人によく似た、それも間違う方なき血縁者が現れれば、箍が外れるのは理解できる。彼女だってこの村の出身で、それも村長の家に生まれたのだ。生まれた瞬間から先祖から引き継がれる崇拝精神は、骨の髄まで染み込んでいる。  けれど、駄目なのだ。それを掲げて人を陥れるのは、駄目なのだ。そうやって自分たちの祖先は追い詰められて、行き場を無くし、そうしてここに隠れ住むしかなかったのだから。  そんな祖先を助けてくれた人の子孫を、選りによってこんな目に遭わせるなんて。 「湊さんは、あなたのお兄さんです。あなたの兄弟なんですよ」  小さな子どもに言い聞かせるように繰り返しても、弘人の表情は晴れない。 「でも……俺に、家族は、もう……」 「いるんです。一人だけ。たった一人だけ、ずっとあなたの家族だった人が」  今日の夕方、弘人のマネージャーである平坂に聞いた二人の仲睦まじい様子が、彼が如何に兄を大切に思っていたのかがよく分かるエピソードが、彼らの絆の強さを知らしめていた。  南方自身はまだ彼の兄を目にしたことはないが、映像付きで思い描けるくらいに、平坂から聞かされた仲の良い兄弟の話は不安の只中にいても憧れるものだった。  そこまで大事にしていた人を忘れるというのはどんな気分なのだろう。  ただひたすら困惑している弘人に、ポケットに忍ばせていた物を取り出して差し出す。  一ヶ月前のあの日、人目につかない井戸に呼び出した際、彼が落とした携帯電話だ。 「これ、俺の……」 「はい。ごめんなさい、私がずっと持ってました。充電はしてありますから、電源を入れてみてください」  言われるがままに起動させた画面を見て、弘人は何通もメールを受信し始めていることに気づいて眉を寄せた。  今までずっと電源は切っていたらしく、センターから次々に送られてくる。だが、こんなにたくさんのメールを寄越してくる人物の心当たりがなかった。平坂なら一緒に村入りしているのだからわざわざメールはしてこないし、事務所だって弘人と連絡が付かないのならば平坂に連絡するはずだ。  一番古いメールは丁度一ヶ月前だった。井戸で倒れて携帯を南方に保護された日が、この未読メールの日付なのだろう。  表示されている名を目で辿って、その形になぜか胸が騒いだ。口中で読み上げてみたら、その音に不意に切なくなる。  初めて見る名前なのに、なぜそんな気持ちが湧くのか分からない。小学生の頃に失くした、自分と同じ苗字の人を見たからだろうか。  ぼんやりと弘人が見下ろす携帯画面を覗き込んで、そこに並ぶ名前に縋るように、南方はもう一度言い聞かせた。  彼の中で強制的に眠らされている本来の彼に、届くように。 「この人が、あなたのお兄さんなんです。あなたと連絡が取れなくなって、こんなに心配して、こんな山の中まで来てくれるような人が、あなたのお兄さんなんです。……思い出してください。思い出す努力をしてください」  真剣な声音で諭されて。  ここ最近ずっと重い頭が、より重くなった気がした。霞がかっていた脳が余計に霞んでくる。南方の声に誘われて、己の記憶を手繰り寄せようとすると途端に圧力がかかって息苦しくなった。  喉元を押さえて、それでも本能的に自分に必要なことだと察知した指がメールを開いていく。一ヶ月前のものから順番に。 「…………」  そこには、確かに自分の身を心から案じてくれている人がいた。  始めは訝しげに。少しずつ不安げになっていって、文章に苛立ちが混じり始める。だがやがて窺い見えていたあらゆる感情は純化され、最後のメールにはただ弘人への真っ直ぐな憂惧だけが残されていた。  携帯を持つ手が知らず震えていた。こんなにもひたすらな思いを向けてくれている人がいたのか。その人を自分はこうもあっさりと忘れてしまったのか。  メールに綴られた兄だという人の言葉を向けられている相手を羨ましく感じた。それは自分のはずなのに、記憶がないから実感がなく、やはりどうしても他人事の感は拭えない。こんなに薄情な人間が、こんな人の弟と呼ばれていいのだろうか。  そうして同時に気付いた。もしもこの人が本当に自分の血縁なのだとしたら、この村は彼にとっても危険な場所なのではないだろうか。南方の言が真実だとしたら、弘人は病気の介抱のためにここに閉じ込められているのではないだろう。  一つ気が付いたら、杜撰な結び目はどんどん綻んでいった。  そうだ、元々村長たちは、弘人に訳の分からない要求をしてきていたのだ。  この村の先導者となること、彼らと共に生きて、死ぬこと。この土地を守ること。なぜそんなことを強要されなければならないのか分からず、ただ拒否していたことを思い出した。  繋がれている間、延々と繰り返されていた押し問答。いつの間にそれが、彼らの親切心で看病されていることになっていたのだろう。  思い出したらぞっとした。この家に滞在していた一ヶ月の間、自分は自分として存在していたのだろうか。時折意識が途切れていたのは薬のせいか。ならばその間、自分は何をしていたのだろう。  ただ寝ていただけではないのは、目覚めた時の噛み合わない記憶が証明している。  弘人の意思を完全に無視した所業だった。人として扱われていなかった。その事実が腰に重たくぶら下がっている鎖の姿で表れているのだ。  恐るおそる見下ろした先で、鉄の輪が不気味に光っていて鳥肌が立った。  そして。  ――――そうして。  ここまで思考が晴れてきたのに、なぜ、兄らしき人のことをちらとも思い出せないのか。何かのきっかけがあれば、思い出せるのだろうか。  メールの羅列を茫洋と見ていた弘人の首筋が、ぞわりと総毛だった。  もし、この人まで捕らえられて、薬漬けにされて、自分が彼を忘れたように、彼もまた弘人のことを忘れたら。 「……南方さん……」 「はい」  思い詰めた眼差しを見返した南方の手に、兄の存在が色濃く漂う携帯を押し付ける。  怪訝な表情の彼女に、弘人は懇願した。 「この人を、連れて来ないで。村長たちに見せないで。頼むから、朝が来る前にこの村から追い出して」  ――――このたくさんのメールを見て、彼も弘人と同じように、首を傾げるのだろうか。  自分が置かれている状況も忘れて、それは嫌だと、ただ思った。

ともだちにシェアしよう!