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第46話
南方が宿泊施設に戻ると、監督と助監督、弘人のマネージャーの平坂の三人が、施設の広間で一人の男を囲んで難しい顔を突き合わせていた。
ふらふらと覚束無い足取りでやって来た彼女を、通りすがりのスタッフや共演者たちがぎょっとした顔で顧みる。慌てて声を掛けてくる者もいたが、監督たちに囲まれている男を一心に見つめている彼女の耳には入らなかった。
周囲のざわめきに気付いた監督たちがこちらを振り返り、南方の姿を見て驚く。彼らに促される形で、中心にいた男も彼女を見た。
「――ッ」
周囲と同じように驚きに開かれた黒瞳を正面から受け、南方の呼気が不自然に止まる。
助監督が何か言っているが、返事どころではなかった。
鬼気迫る表情で立ち尽くす南方の様子は、誰が見ても異常だった。一応は整えたようだが、それでもぱさぱさと顔にかかっている髪に、剥げかけた化粧。ワンピースから伸びたストッキングはあちこちが伝線して穴が開き、靴の無い足からは血が滲んで床を汚している。
まるで何かに襲われて命からがら逃げてきたような有様だ。
そんな状態の彼女が無言で見つめるばかりの相手が、怪訝そうに眼を細めた。
「……ぁっ……」
その表情に、戦慄が走る。
弘人の兄なのだから、多少は彼にも面影があるのではと危惧していたが、これは。
小さな頃からずっと憧憬と共に見つめ続けていた人が、血肉を伴ってそこに在る錯覚に、南方の胸が震えた。
それは身を搾るような、強い歓喜だった。
「どうしたんだ、南方ちゃん。その怪我は?」
彼女にも確かに植え込まれている思慕の念が、周囲の景色を奪い去った。
会社から慌てて駆けつけたのだろう彼は、僅かに乱れた黒髪を後ろに撫で付け、仕立ての良いスーツに身を包んで姿勢良く立っている。
こちらを見遣るその姿だけが、色を失くした世界の中で酷く鮮やかだった。
――――村に遺されているあの写真に色がついたら、きっとこうだと思わせる程に。
「……南方ちゃん?」
監督の日野が慎重に南方を覗き込む。いつものようにその気遣いに応える余裕はなかった。
吸い寄せられるように彼の許へ――弘人の兄、湊に近づいた彼女は、我知らず呻く。戸惑う彼の手を両手で取り、染み付いた習性で両膝を床に着いた。
明らかに様子のおかしい彼女に、日野と助監督は眼を見交わしてその姿を隠す方向で動き出した。ただでさえ主演俳優の異常事態で現場は逼迫しているのに、これ以上の混乱は避けなければならない。
監督が周囲の視線から二人を隠す盾となって傍に立ちはだかり、助監督が遠巻きに見守っていた人々を部屋に戻していく。
最後の野次馬が広間から出て行って、この場にいるのが四人だけとなったことを確認した湊は、自分の片手を押し頂くように額に当てて泣きじゃくる女の肩に、自由な方の手で触れた。
「落ち着いてください。……南方、エマさん、ですよね? 返事は、できますか?」
耳が好む低い声でゆったりと促されて、南方ははっと顔を上げた。夢から醒めた人のそれで見下ろしてくる男の顔と自分が握り締めている手を交互に見て、弾かれたように手を離して立ち上がる。
自分が取った行動を振り返って、一気に首筋から後頭部にかけて熱が昇った。血の気のなかった頬が羞恥で勢いよく赤くなっていくのが分かる。
「あっ、すっ、すみません、あの、あの、かい、海津さんのお兄様ですよね!?」
今までの幽霊のような儚さが吹っ飛んだ彼女の、引っくり返った大声に今度は湊がびくりとした。
部下に見せられた雑誌で見た彼女は、先程までの儚げでおとなしやかなイメージそのものだったから、思いがけない俊敏な動きと食いつくような大声に驚いたのだ。
わたわたと焦る南方は、よくよく見れば二十歳そこそこの、やっと大人になり始めたばかりの年頃に見えた。
真っ赤になったかと思えば、湊を驚かせてしまったことにおろおろと青い顔をする。分かりやすく動揺している彼女に悪いと思いつつも、湊は我慢できずに小さく吹き出した。
「っ……お、お兄さん……っ」
この状況で笑われるなんて思っていなかった南方の顔が、またもや赤くなる。
羞恥にぶるぶる震えだす様は人慣れない小動物のようで、つい愛護精神が湧きそうになった湊は咳払いで誤魔化した。
さすがに二十歳を超えた女性を動物扱いするのは失礼だし、そんな場合でもない。
「失礼しました。海津弘人の兄の、湊です。はじめまして、南方さん」
自然な動作で握手を求められて、南方は咄嗟にその手を握り返す。今度は正気で握った手のひらは大きくて温かくて、写真や冷たい像にしか向けられなかった想いに血が通っていくような気がした。
離しがたくていつまでも手を引かずにいたら、湊から困った眼差しを向けられ渋々離す。彼はあの人ではないと分かっているのにこうも心をコントロールできない自分は、どこまでいっても所詮この村の娘なのだろう。
「それで、どうして貴女がそんな状態で、あんな行動を取ったのか、聞かせてもらえますか」
広間に設置されているソファに座らされ、ぼろぼろの足をどこからともなく助監督が持ってきた踏み台に置くよう促される。対面のソファに湊と日野が座り、南方の足元に座った助監督が手当てを始めてくれた。
家族でもない異性の目の前でストッキングを切り取られる羞恥に耐えつつ、南方はこれまでの事を洗いざらい打ち明けた。下手に隠して事態をこれ以上ややこしくするつもりはないし、何よりも、彼女にはもう隠し続ける余裕がなかった。今日明日にでも弘人を正常な世界に帰さなければ、食事も水も摂るなと言った以上牢の中の彼が保たなくなる。
南方の話が進むにつれて、監督は信じ難い事実に頭を抱え、湊は思案気に表情を曇らせた。
「それじゃあ、前警察にって話になった時出てきた弘人は、正気じゃなかったってことか?」
一週間前の出来事を思い出して日野は腕を組んだ。
撮影の開始時間になっても現れない弘人を迎えに行った村長宅で、対応に出た家人に弘人は行かない旨を伝えられ、そんなわけがあるかと一悶着起こしたのだ。何を言ってもらちが明かず、監禁を疑って警察に連絡をしようとした。その時になってようやく弘人が姿を見せて、家人の言っている通りだと告げられたのだ。
本人の意思だと思ったからこそその場では撤退し、この一週間の間幾度となく説得のために村長宅に通っていた。全て門前払いを食らわされたが。
まさか本当に監禁だったとはと、日野は手を拱くだけだったこの一週間を悔やんだ。
先程南方が弘人の生存を確認してきてくれたから一先ずは安心だが、下手をしたら弘人の姿を見なくなった時点で死んでいた可能性だってあったのだ。監禁だとかの言葉は浮かんでも、それをどこか非現実的に受け取って、実際よりも軽く考えていた。
管理責任者としての日野の落ち度だ。
「たぶん、そうです。今日見た限りでは、だいぶ限定されて薬を使われていたようですが……」
「限定?」
「……お兄さん」
思い詰めた南方の瞳に、湊は酷く心許無い不安に駆られた。
先を聞きたくない。けれど聞かなければならない。聞かなければ、対策が立てられない。
何を言われても無様な姿は晒すまいと、膝に置いた手を固く握った湊から眼を逸らさずに、彼女は乾いた唇を開いた。
「海津さんは……弘人さんは、あなたのことを」
――――紡がれた七文字の音が、湊の頭をうわん、と翔けた。
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