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第47話

 食堂の換気扇が、吐き出した紫煙をあっという間に攫っていく。  気持ちを落ち着かせたくて一服できる場所を求めたらここに連れて来られた。明かりを搾った食堂は無人で、並んだテーブルを使っているのは湊だけだ。  背凭れに深々と体を預けて、テーブルに置いた灰皿にとん、とん、と灰を落とす。  普段はヘビーというほどではないが、頭を整理する時に無性に吸いたくなる煙草の馴染んだ香りにやっと息をつけた。  ……今回ばかりはさすがに、疲労を感じずにはいられなかった。  一ヶ月だ。  一ヶ月の間、応えの無さに焦れた。動けない身がもどかしくて、心配して。理由があるなら話してくれるだろうと思っていた南方との記事のことなど綺麗に忘れ去るくらい、その身を案じ続けて。  ――――まさか、自分の方が忘れられていたとは。 「……はあ…………」  目元を覆い隠して、長い、長い息を吐く。  無事とは言い難いが五体満足で生きていることを褒めてやるべきだ。それで満足するべきだ。一番辛いのは、勝手に心を弄られた弘人なのだから。自分の感情に囚われるより先に、彼を取り返す方法を考えなければ。  頭はそうやって分別のあるようなことを言う。なのにこの、疲れて鈍くなった心はどうだ。  会社に迷惑をかけてまで、ここまで駆けつけた湊に突きつけられた事実は、思いの外彼にダメージを与えていた。力が抜けた、というのだろうか。虚脱、か。  全てが馬鹿馬鹿しく感じられて、放り出したくなるこの感じは、何と言うのだったか。  正直、薬のせいとはいえ、不可抗力とはいえ、何を簡単に忘れてくれているのだと弘人を恨みたい気持ちもある。反対の立場ならそんな勝手なと思う自信があるくらいには理不尽な恨みだと自覚しているけれど、もういいだろう、もう綺麗事ばかり考えるのも疲れた。胸の内で思うくらい、もう許してくれてもいいだろう。  はっきり言って湊は拗ねていた。年甲斐もなく。  自分でもどうかと思うほどふて腐れていて、監督らが今後を話し合い中の広間にも戻りたくないくらい腐っていた。  二人でどろどろに愛し合ったのは、つい二ヶ月ほど前の事だったのだ。恥ずかしながら両親に二人揃って報告などもしてみた。二人で歩む時間を大事に、互いを大切に想い合って生きていくと誓ったばかりでこの事件。  誓った相手に忘れられる……それも自分のことだけ、という喜ぶにも痛すぎるこの惨劇は、もはや喜劇だ。 「もー……何なのあいつ…………」  煙草を灰皿に押し付けて退かし、テーブルに突っ伏す。  寒い。体も心も寒い。  初秋とはいえ、山の中は相当冷える。常ならばその程度考えずとも分かるのに、コート一枚持ってくるのも忘れるくらい弘人に振り回されている。  ああもういやだ。  なのにもう二度と見捨てられない。もう手放せない。だって、あれはもう全部、湊のものなのだから。  そうだ、所有者がこうして迎えに来たのだ。帰らないなどと駄々を捏ねたって連れて帰る。引き摺ろうが縛ろうがこちらの自由だ。権利だ。  南方から伝えられた弘人の願いを思い返す。  連れて来ないで?村長たちに見せないで?追い出して?  ――――上等だ。  ひたすら落ちたら後は上がるだけだ。  むくりと上体を起こし、渡された弟の携帯を開いた。  ずらりと並んだ受信メール。全て湊の名で埋められたそれは開封されている。今日やっと見られたらしい、その時の弘人の様子も南方からつぶさに聞いている。  震えるくらい不安なくせに。  泣きそうなくらい怖いくせに。  無意識に青褪めながらも、忘れてしまった湊の心配をするような弟の強がりを、兄が見過ごすはずがないだろう。  何十通にも及ぶメールを最後まで全て開いて、一番最近のものを閉じることもせずに開きっ放しの携帯を握り締める。  弘人の、言葉にできなかった本心がそこに滲んでいた。  自分を案じる誰かの存在。忘れていても確かに自分に向けられたと分かる言葉を閉じて、待受画面に戻すことすらできなかった彼の、相手を案じる余りにメッセージにも残せなかった心。  ――――たすけて。  湊の選択は、いつでもたった一つ。  それは昔も今も、どんな状況であっても変わらないただ一つ。  弟の窮地には力を貸す、それが兄だ。

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