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第2話「ありがとう」
〇ありがとう
「柴田くん、提供お願いします」
店長の柔らかなトーンが耳につくと、洗いたての子供用のコップを拭く作業を中断し厨房前のカウンターへと急ぐ。
「あっさり風中華そば、お願いします」
「かしこまりました!」
ちらり、と貼り付けられた伝票へ目配せをする。横並びに配置されたそれは、一番左にあるものが優先順位的に上位のものを示している。
(あっさり……だけ。 席は……、……あっ)
18卓、そう印字された伝票をピッと軽く引くようにして手に取るともう片手にラーメンの入った器を持って、目的のテーブルへと俺は足早に向かった。
「お待たせしました、あっさり風中華そばです」
「お、ありがとう」
アッシュブラウンの癖毛に、今日もやっぱりちょっとだるそうな目元。…あの人だ。
俺の手元にある器を確認すると、その人は俺が置きやすいように少し背もたれに寄りかかるようにして体を反らしてくれた。
その行為に心の中で礼を言いながら、そっと器を彼の前に置くと半歩下がって表面を下にした伝票を両手でテーブルに添える。すべて、マニュアル通りだ。
「以上でご注文はお揃いでしょうか?」
本当はわかってる。けれど、これも仕事のうち。そう言い聞かせながら、俺は接客用の落ち着かせた声でたずねた。
ーと、その時だ。
「しばた、くん?」
目の前の彼が、確認するようにゆっくりと告げた。
(しばた、って俺のこと、だよな?)
「しばたくん、じゃなかった?」
「え?あ、はい! しばたです……!」
不意に名前を呼ばれ、どきりと心臓が跳ねる。その反動で、動揺が唇からこぼれてしまう。
目の前の彼はといえば、そんな俺をくつくつと小さく笑ったあと割り箸に手を伸ばす。
「あはは、ごめんね。 名札、目についたから」
「あ、いえ」
そうか、名札か…と俺が1人納得しかけていた時。彼の不意打ち第二波が俺を襲う。
「声、いいね」
「は?」
あまりに唐突な賛辞に、ぶっきらぼうな声が出てしまった。気を悪くしてないか、内心気が気じゃない。
そんな俺の心配をよそに、目の前の彼は続ける。
「声、すごくいいよ。 透き通ってて、決して張っていないのにすっと入る感じ」
心地いいって言うのかな、そう続ける目の前の彼に俺はもうまっすぐ視線を向けることはかなわなくなってしまった。
恥ずかしい、褒められているのだろうけど……慣れない賛辞は、俺の心をくすぐるには十分すぎる。
「あ、えっと、あの…ありがとう、ございます…」
とにかく、恥ずかしくていたたまれない。顔は、無事だろうか。破顔とか、赤面とか…そんなことになっていたら惨事でしかない。
しかし、そんな俺をよそに彼はまたもや言葉を続けた。
「いつもその声に癒されてるよ。 ありがとう」
ーどきり。
胸の奥に、微かな痛みを覚えた。…否、痛いというよりは詰まるような、熱を持ったような……あぁダメだ上手くまとまらない。
俺は今、どうしようもないくらい動揺している。 彼はといえば、ぱきん、と割り箸を丁寧に二つに割くと静かに目の前のラーメンをすすり始めていた。
ー感謝を言うべきなのは、きっと俺だって貴方はきっと知らないんだろうな。
ピンポーン、と店員を呼ぶためのベルの音が聞こえてきた。
は、と我に帰り席番号が表示されるパネルへ視線を向けると窓際の一番奥の席……6番卓が表示されている。
そのまま俺は、美味しそうに音を立てて麺をすする彼をよそに窓際まで足早に歩き出した。
「ただいまお伺いいたします!」
ラストオーダーは深夜1時を回ったら 「ありがとう」 完
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